日本軍の残虐行為特集

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太平洋戦争時に日本軍は中国や朝鮮などから大量に現地住民を日本へ拉致し、強制労働に従事させた。

戦時期の住友鉱業株式会社・住友別子鉱業所(旧井華鉱業別子鉱業所)において数百人の中国・朝鮮人が強制労働に従事させられ劣悪な環境の中で数百名の死亡者も出た。

栃木県の足尾銅山(古河鉱業別子事業所)において朝鮮人や中国人数千名が日本軍により強制連行され、リンチや奴隷行為の強制により数百名が事実上日本軍の行為を原因として殺害されたと言っていい。

 

 

 

 

1923年9月福田村事件発生。

福田村事件をはじめとする一連の朝鮮人虐殺行為では、そもそも日本軍により強制的に連れてこられた妊婦や子供を含む朝鮮人6000人以上が根も葉もない流言により日本人により一方的に虐殺された事件。いつの時代も頭の弱いカスは存在するが、この事件はそういったカスどもの愚行の最たるものだろう。現在の柏市の福田村、田中村(そういえば愚かな判決を出した田中の名を持つカス裁判官もいた)の自警団が主導したと言われる。当時日本が支配していた抵抗運動におびえる日本政府が主導したと言われる。

 

 

 

 

 

1932年9月

平頂山事件発生。1932年9月ごろ現在の中国遼寧省北部において、日本軍が、その前夜の抗日ゲリラによる炭鉱襲撃の報復のためと称して、抗日ゲリラと通じていた言いがかりをつけた楊柏堡村付近にあった平頂山集落の住民3000名超を虐殺した。

 

 

 

 

 

 

1937年12月 

南京大虐殺を日本が引き起こした。日本が南京市を占領した際、日本軍が約2カ月にわたって多数の中華民国軍の捕虜、敗残兵、便衣兵および一般市民を殺害、略奪、強姦、放火した史上まれにみる非道な事件で30万人以上の民間人などを虐殺し、強姦し略奪を繰り返した史上まれにみる残虐行為である。

 

 

1937年

百人斬り競争とは、1937年11月から12月にかけての中国の南京での戦争において、日本軍が敵兵百人斬りをどちらが先に達成するかを、確認役として互いの部下1名ずつを相手方に派遣した上で遊びのように競争し、野田が105人、向井が106人斬り殺した残虐事件。

 

1941-

旧日本軍が、中国、シンガポール、インドネシア、朝鮮(現在の韓国及び北朝鮮)、フィリピン、ソロモン諸島、台湾及び当時日本軍の占領下にあったすべての国の女性を最低でも20万人以上強制連行し性奴隷として徴用し続けた挙句、その中には虐殺されたものも多数いた。

 

 

 

 

 

 

 

1942年 

香港侵攻の際、日本兵がイギリス人看護師たちをレイプし、殺害までする必要のない武装していない看護師たちを殺害した。

 

 

1942年9月

セララン兵営事件発生。シンガポールのチャンギーの捕虜収容所で、日本軍が、4人の連合軍捕虜を見せしめに銃殺し、捕虜約15,000人を収容人員900人弱のセララン兵営に移動させる虐待を行って、捕虜全員に脱走しない旨の誓約書への署名を強要した

 

 

 

 

1942年 

「バンカ島虐殺事件」。インドネシアのバンカ島において日本軍が「ヴァイナー・ブルック」号の約300名のイギリス人とオーストラリア人を殺害した事件。イギリス人・オーストラリア人男性だけを海岸に並べ射殺し、残りの非武装の女性看護師の一団が、日本兵たちに性的暴行を受けたあげく虐殺された。

 

 

 

アレクサンドラ病院事件発生。シンガポール攻略戦中シンガポールのアレクサンドラ病院(英語版)で、日本軍 (第25軍)が、英軍医療隊の軍医将校・看護兵、負傷者ら200人以上を殺害した

 

 

 

1942年 

大船収容所事件発生。太平洋戦争中の1942年5月から1945年8月にかけて、日本海軍が神奈川県鎌倉市植木に秘密裏に設置した大船収容所で、海軍軍令部の将校や収容所の職員が、米軍捕虜に対して、長期間独房に入れる、殴打する、十分な食事を与えない、傷病を治療しない等の虐待を加え、6名を拷問死させた。

 

 

 

1942年4月-

ジョンベル憲兵分隊事件発生。ジャワ島のジョンベルなどで、日本軍の憲兵隊員が、でっちあげで検挙した男女の尋問に際して、拷問を行い、故意に飢えさせたり、拘禁室や狭い部室に数日間満員の状態で押し込めたりして、多数の被拘禁者を死に至らしめ、身心に多大の苦痛を与えた挙句、オランダ国籍の女性を強制して慰安所に監禁し売春させるなどの残虐行為を繰り返した。

 

 

 

1942

泰緬鉄道建設捕虜虐待事件発生。第二次世界大戦(太平洋戦争)中の1942年から1943年にかけて、タイ・イギリス領ビルマ(現:ミャンマー)間の鉄道建設予定地で、日本軍が、鉄道建設に従事した連合軍の捕虜やアジア人労働者16000名以上を虐待・虐殺した事件。

 

 

 

 

1943年9月-

櫻倶楽部事件発生。日本軍は、1943年9月から1945年9月にかけて日本軍の占領統治下にあったオランダ領東インドのジャワ島・バタビアの慰安所「櫻倶楽部」で、同施設の日本人経営者が日本軍の軍事的脅迫のもとに、シデン抑留所を含むバタビアやその周辺都市からレストランの給仕と偽って徴募したオランダ系を中心としたヨーロッパ系の女性・少女に対して、売春を強制し、辞めたいと申し出たものを暗殺するなどの残虐行為を繰り返した。

 

1943年

アピ事件発生。

1943年10月10日、日本軍占領統治下のイギリス植民地のボルネオ島アピで、華僑を中心とする現地住民少なくとも数百名を日本軍が虐殺した。

 

 

 

 

 

1943年10月10日

双十節事件発生。日本軍がシンガポールで、英国人や中国人などの上流著名人ら50人以上を逮捕して拷問・虐待し、15人を死亡させた

 

 

1944年 

パラワン島捕虜虐殺行為。日本軍は、米兵捕虜全員を地下壕へ入れ小銃および機関銃で武装した5、60人の監視員が地下壕入口を包囲し手榴弾とガソリンの入ったバケツを投げ込み火を付けました。壕から逃れようとした者は射殺または刺殺されています。米兵捕虜138名が虐殺された

 

1944年

ビハール号事件は、日本軍がイギリス商船ビハール号撃沈で得た捕虜およそ80名を1944年3月にスマトラ島東方の海上で殺害した事件。

 

1944年

スマラン慰安所事件発生。日本軍占領中のオランダ領東インド(現在のインドネシア)で日本軍人が17歳から28歳の合計35人のオランダ人女性を強制的に集め監禁・日本将兵らに売春を行うことを強制していた

 

1944年 日本軍が、オランダ人女性35人を民間人抑留所からジャワ島のスマランにあった慰安所に連行し強制的に売春行為を続けさせた

 

1944年 

マゲラン事件発生。インドネシア、ジャワ島・マゲランのムンチランにあった旧宗主国のオランダ系を中心とした女性・子供の女性13人が日本軍によって連行され、日本軍によりマゲランの慰安所で強姦された上、売春を強制された

 

 

 

 

 

 

 

1945  太平洋戦争中に日本軍が設置したマレーシア・サンダカン捕虜収容所におけるオーストラリア・イギリス軍兵士捕虜に対する捕虜虐待および「死の行進」と言われる行為である。これに伴い1000人以上の捕虜が、7人を除き全員死亡したとされる。

 

 

1945  カラゴン事件発生。1945年7月に、ビルマのカラゴン村で、日本軍が、住民を拷問・暴行を加え637人を殺害し、さらに家屋放火し女性を拉致・性暴力の上殺害した。さらに日本軍は村を離れたあと、再び村に現れて家屋に放火し、約10人の女性を性暴力目的で連れ去る蛮行を行った

 

 

1945  小笠原事件発生。1945年に小笠原諸島父島において日本の陸海軍高級幹部が、アメリカ軍航空部隊の搭乗員である捕虜8名を処刑し、そのうち5名の人肉を嗜食する残虐行為を行った

 

1945 

マニラ大虐殺を日本軍が引き起こした。日本軍の大虐殺によりフィリピン人、スペイン人等10万人を超える人々が虐殺された。

ドイツ人に関しては当時同盟を組んでいたにもかかわらず次のような野蛮な残虐行為を日本軍が行った。

マニラの高級住宅街であったエルミタ地区地区で戦闘により火災が発生しロペス氏が500人以上と共に戦火から逃れようと、フィリピン在住のドイツ人クラブの建物の地下に避難したが、日本軍の部隊がクラブを包囲し、ガソリンを撒き、火を放った。ドイツ人クラブのマルティン・オハウス氏が日本軍の士官を説得しようとしたが、士官はオハウスを突き飛ばして足蹴にし、命乞いをする赤子を抱えた母親たちの目の前で日本軍の兵士らが銃剣で赤子を突き刺し、地面に叩きつけ女性たちの髪を掴み、強姦し始めた。そして20人を超す日本軍兵士たちが13歳に満たない外見の少女を輪姦した上、少女の乳房を切り取り、そのうちの一人が自分の胸に切り取った乳房を押し当てて女の真似をし、他の兵士たちはそれを囃し立てた挙句、他複数名の女性も強姦した挙句、髪にガソリンを撒いて焼き殺した。同じ現場ではロペス氏の使用人の一人 Bernardino Calub 氏も当時2歳の息子を竹槍で突き殺され、下手人に仕返ししようとして袋叩きにされた挙句連行されたロペス邸跡のガレージの柱に縛り付けられ、性器を切断されて口内に突っ込まれ殺害され、その姉マリア氏は焼き殺され、その義姉フリア氏は日本軍兵士に輪姦され、乳房を切断、髪にガソリンを撒かれて焼き殺され、その知人の女性も殺害後に死姦された。

日本軍はスペインの領事館に放火し、消火するため外に出るように促し、火災発生と聞いた領事館使用人のリカルド・ガルシア・ブツクがスペイン国旗を掲げながら外に出たところ、日本兵が待ち構えておりガルシアは射殺され、日本兵はガルシアを射殺すると領事館内に突入して、避難していたスペイン人たちを片っ端から銃剣で刺殺していった。さらにその後、領事館には数グループのスペイン人たちが避難していたが、50人に上る領事館に居た人びとは、女性や子ども、領事館守衛も含め全て殺害された。女性に対し上述のような残虐行為がなかったとは全く言えないだろう。にもかかわらずこの卑劣な残虐行為に対しその後日本からは支払われた賠償額はたったの550万アメリカドルだけだった。

エルミタ地区のフィリピン人、同盟国のドイツ人やイタリア人、中立国のスペイン人、ロシア人などのヨーロッパ系白人の女性・子どもたちのグループが日本軍によりとらえられベイビューホテルに収容された、イギリス人、トルコ人、スペイン人、イタリア人の若いヨーロッパ系白人女性を中心に20数人の女性が選抜され数日間に渡って繰り返し多数の日本兵から性的暴行を受け、さらにベイビューホテルに残された女性も収容された女性と子供のうち200~300人が日本軍により性的暴行が加えられたあげく

中には殺害された者もいた。娘が被害を被った何人かの母親たちが、ベルビューホテルの日本軍の責任者テラモト(漢字不明)というゴミに兵士の性的暴行を止めさせるように泣きついたが、テラモトは「自分にできることは何もない」と答え、日本兵による性的暴行は止まらなかった。

赤十字のフィリピン総合病院で日本兵が手術室に乱入すると緊急手術の準備中であった看護婦や助手を射殺したり銃剣で突き刺し目についた避難民も虐殺し中には赤ん坊を抱えた婦人を赤ん坊もろとも射殺した日本兵もい、略奪を開始し乏しい避難民の食料も奪っていった。避難民や病院関係者の女性へのレイプ行為も行われ日本軍の手によって殺害された病院関係者や避難民は30人~60人になったといわれる

またマニラを占領時に、男女およぶ幼児24名が日本軍により虐殺された

さらにまたマニラを占領時2月15日、男女および幼児19名がタバカレーラ付近で日本軍により虐殺された

 

 

1945年5月

東京陸軍刑務所飛行士焼死事件発生。第二次世界大戦末期の1945年5月の山の手大空襲の最中にアメリカ軍捕虜を意図的に逃がす措置をとらず焼死させる残虐行為を行った事件。

 

 

1945年5月

アメリカ陸軍航空軍の空襲で捕虜となったドワイト・M・カナップ少尉を裁判を受けさせることなく「殺人を犯した米兵を捕虜として扱う必要なし」と河川敷でカナップ少尉を処刑した

 

1945年6月 

花岡事件発生。日本軍により中国から秋田県北秋田郡花岡町(現・大館市)へ強制連行され鹿島組 (現鹿島建設) の花岡出張所に収容されていた 986人の中国人労働者に対し、過酷な労働や虐待による殺害を行い400名以上を日本社会が虐殺した事件。

 

 

1945年

マラッカ事件発生。日本軍の警備隊が、共産党員を含むマラッカの現地住民14名を逮捕し、マラッカ付近で10名を虐殺、4名を負傷させた。

 

 

1945年

石垣島事件発生。太平洋戦争末期の1945年4月15日、沖縄県の石垣島で、日本軍の海軍警備隊が同日撃墜し捕虜となったアメリカ海軍艦載機の搭乗員3人を集団リンチの上殺害した。

 

 

 

 

 

 

なお、日本軍の野蛮極まりないこのジェノサイド行為についてはまだまだたくさんあり、さらに詳述していく。

なお、この記事記載の際の侮辱的記載妨害行為に対しては、その攻撃行為の下劣な指示者どもに対し報復措置をとった。