最初の現象はもっと静かでした。
毎晩二時になると、
カタン。
包丁立てが一度だけ鳴る。
それだけでした。
ところが日を追うごとに、
カタン……カタン……。
一回だった音が二回になり、
やがて食器棚の皿まで震えるようになります。
不思議なのは、
音が鳴る直前だけ、
部屋の空気が異様に冷たくなることでした。
まるで誰かが、
息を潜めて立っているように。
そして、仕事で心が折れたあの夜。
音は二時ではありませんでした。
まだ十一時。
突然、
ガンッ!!
包丁立てが壁に叩きつけられるような音が響きました。
続いて皿が落ち、
コップが割れ、
引き出しが勝手に開きます。
まるで誰かが、
「逃げろ!」
と暴れているようでした。
私は恐怖と怒りで部屋を飛び出しました。
翌朝。
管理人から真下の住人の事件を聞かされます。
覚醒剤で錯乱した男が、
包丁を持って階段を上がり、
真っ先に私の部屋へ向かっていたことを。
その時間は、
十一時五分。
私が部屋を飛び出した、
ほんの数秒後だったそうです。
私は震えながら部屋へ戻りました。
キッチンには割れたマグカップ。
散乱した食器。
そして床に、
小さなお守りが落ちていました。
祖母が作ってくれたお守りです。
私は涙が止まりませんでした。
「ああ……おばあちゃんが助けてくれたんだ。」
そう思いました。
部屋を引き払う日。
最後にキッチンへ向かうと、
散らばった食器の陰から祖母のお守りが出てきました。
私は思わず手を合わせました。
でも。
荷物をまとめている時、
ふと違和感を覚えました。
お守りは、
祖母が亡くなった日に、
棺の中へ納めたはずだったのです。
私は急いで実家へ電話を掛けました。
母は少し驚いたように言いました。
「え?
お守りなら、
おばあちゃんと一緒に燃やしたでしょう。」
では、
今、
私の手の中にある、
このお守りは。
私は恐る恐る裏返しました。
祖母が縫い付けたはずの布ではありません。
黒ずんだ布に、
細い糸で、
見覚えのない文字が縫われていました。
『まだ間に合う』
すると、
誰もいない部屋で、
カタン。
包丁立てが一度だけ鳴りました。
まるで返事をするように。
私は涙を拭いて部屋を出ました。
もう二度とあの部屋へ戻ることはありません。
数日後。
事件の記事を読み返していて、
一つだけ気になることがありました。
錯乱した男が警察に取り押さえられたのは、
午前0時前。
ところが、
私の部屋でポルターガイストが始まるようになったのは、
その事件の半年前からだったのです。
あの音は、
本当にあの日だけの警告だったのでしょうか。
それとも、
もっと別の何かを、
私から遠ざけようとしていたのでしょうか。
今でも答えは分かりません。
ただ一つだけ確かなことがあります。
引っ越した今でも、
深夜二時になると、
どこからともなく、
カタン。
と、
一度だけ包丁立ての
鳴る音が聞こえる夜があります。