こんばんは。

 

昨年の暮れに、大阪市内にある「森ノ宮ピロティホール」へ『民衆の敵』という舞台演劇を観に出掛けました。

 

その内容が私にはなかなか衝撃的でしたので、シェアさせていただきます。

 

森ノ宮ピロティホール

 

入口前の階段で並ぶ人々

 

ホワイエの様子

 

主役は堤真一さん。その他安蘭けいさん、谷原章介さん、段田安則さんなど豪華キャストの舞台でした。

 

画像出典:シアターコクーン

 

 

内容については『民衆の敵』のオフィシャルページより要約します。

 

温泉の発見に湧くノルウェーの海岸町。その発見の功労者となった医師が、実はその水質に問題があることも突きとめ、被害を防ぐべく事実を公表しようとします。当初町の有志も彼の正義に賛辞を送り後押ししようとするが、補修費用が市民の税金から賄われると知り、手のひらを返し、主人公を「民衆の敵」であると責め立てる。

 

ちなみにこれは『人形の家』で有名なヘンリック・イプセンの戯曲で、今から一世紀以上も前の1882年に書かれたものだそうです。

 

ネタバレ注意!

ここから先はより突っ込んだ内容に触れる箇所もあります。

 

上の概要だけではわかりにくいですが、当初主人公は民衆集会で事の是非を町の人々に問おうとしたのですが、町の人たちは温泉の観光客が来なくなると困るとか、補修費用で税金が上がってはたまらないとか、ちゃんとした温泉施設に復旧させるまでには数年かかり生活が成り立たなくなるとかと聞かされて、にわかに市長が企む隠蔽工作に与(くみ)するようになります。

 

それを知った主人公は民衆集会で温泉汚染の事実データを公表するのではなく、町の者をバカにし始めます。曰く、「真理と自由の最も危険な敵はぐうたらな多数と聴衆を罵倒し、集会は炎上します。

 

今まで私は「99対1」の“99”である、搾取ばかりされる側の民衆は『正義の側』だと無意識的に判断していました。民衆が一致団結すれば“1”の側を打倒できると夢想していました。

 

が、しかし敵は“99”の中にいたのですね。これはコペルニクス的転回の視点変換でした。

 

なるほど、民衆は半径5mのせいぜいが家族を守ることに正義を置いているのだな、と。もちろん自分もその一人であって、非難できないところがイタいところなのですが・・・“1”の側は自らを守るために、この手法を巧みに利用しているのです。

 

対岸の火事である限りにおいて、辺野古の基地移転問題や原発再稼働を傍観していられますが、実際に火の粉が飛んできたときに正義を貫き通せるのだろうかと考えさせられる内容でした。

 

まったくのおぼろげな記憶で恐縮ですが、第二次大戦中のナチスでユダヤ人の弁護士が、周りのユダヤ人が次第しだいに収容所に連行され減っていくのを目にしても、「自分は弁護士で国のために働いているから大丈夫」と真実から目をそらしていたら、ある日自分のところにもゲシュタポがやってきて収容所送りにされたという話を思い出しました。

 

心理学用語では「正常性バイアス」と呼ぶそうです。

 

正常性バイアス

(せいじょうせいバイアス、英:Normalcy bias)とは、認知バイアスの一種。社会心理学、災害心理学などで使用されている心理学用語で、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のこと。

自然災害や火事、事故、事件などといった自分にとって何らかの被害が予想される状況下にあっても、それを正常な日常生活の延長上の出来事として捉えてしまい、都合の悪い情報を無視したり、「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」などと過小評価するなどして、逃げ遅れの原因となる。「正常化の偏見」、「恒常性バイアス」とも言う。

(ウィキペディアの「正常性バイアス」の項より)

 

『民衆の敵』でも、結局は観光客に被害が出て、後々もっと多大な賠償を支払う羽目になるのは目に見えているのに目先の利益を求めてしまう大衆の弱さ、長いものに巻かれろ心理、見て見ぬ振りは普遍的テーマですね。

 

それだけにトップに立つ者は目先の利益ではなく、国家100年の計を考えないといけなのでしょうが、それでは“民衆の敵”となり、民主主義の世の中では支持されません。

 

支持されないということはトップに立って旗を振ることができず画餅に堕してしまいます。ポピュリズムの台頭著しい今の世にこそ問われてしかるべき戯曲なのでしょう。

 

新たな視点を頂けたという意味でとても有意義な観劇でした。

 

ではまた。