今の僕はとにかく哲学的だ。
それは今が深夜の2時にさしかかるからであるし、淹れたてのコーヒーを片手にハーシーズのキスチョコをつまんでいるからでもあるし、何より大きいのは先ほど、久しぶりにこれだ!という映画に出会えたからなのかもしれない。
その映画のタイトルは『Mr.Nobody』といった。
この記事ではこの映画の内容について触れるつもりはないけれど、それでもこの映画は僕にとってかけがいのない映画となった。
映画は面白い。
僕が映画を本格的に見始めたのはほんの2年くらい前のことだ。きっかけは覚えていないし、これも村上春樹同様、当時好きだった子に影響されて見始めたのかもしれない。男の人生の多くは女の子に影響される。これはあくまで一般論だ。
映画を記録するアプリをダウンロードして、見た映画、見た映画に、自分のお気に入り度、そして軽く一言を添えて、記録していった。その作業が結構楽しくて、そして、映画自体もまたとても楽しくて、僕はどんどんと画面に吸い込まれるようにはまっていった。
僕は週に7本の映画を見て、月に5回映画館に行って、年に5回『インセプション』を見返し、累計30分間に渡り、『ワンデイ』を見て涙を流した。
気づけば、誰がする映画の話にも僕はついていけるようになった。誰かが映画のタイトルを言って、他の3人が、首をかしげる中、僕だけが息巻いて「いいよねそれ!!」と両手を挙げることが何度もあった。そして次第に僕の元に映画が好きな人が自然と集まってきた。いや、お互いに引き寄せあったのだ。そして僕たちは共に映画を観に行き、共感しあった。ポップコーンを取る手が何度かぶつかりあいながら。
「映画に出会う」というフレーズはよくいったもので、まさしく映画とは出会うものである。
それこそ、「運命の映画」に出会うこともある。そしてそれは、案外、「運命の人」に出会う確率と同じくらいだったりする。
映画だって、もちろん全てが良い映画というわけではない。人はいろんな価値観を持っているから、賛否両論ある映画もあれば、誰が見てもダメ映画だという代物だってある。そんなときは、この二時間は一体なんだったんだろうと考えざるを得ない。きっと忍耐力テストか何かだったのだろうと、半ば強引に首を縦に振ってみる。それなら僕はなんとか耐え切ったから、明日もまた頑張ろう、などと天井を見上げながら、目を閉じて、その一日を終える。もちろん翌日には忘却の彼方だ。
けれども、ごく稀に、これは素晴らしいじゃないか、という映画に出会うこともある。「まさしくこれは僕のための映画じゃないか」、そんな気さえ起きる。この映画が女の子なら僕は間違いなく結婚するべきだとまで思う。そういう映画は、人生を通して、なんども繰り返してみる。映画は二回目からがスタートラインだ。子どものころに、それこそアンディと同い年だった頃に、『トイストーリー』のビデオをこれほどかというまで繰り返して見た。占いおもちゃを手にとって言う、「望み薄?あ~あ!」というウッディのセリフが今でも耳に残っている。当時は「望み薄」という言葉の意味さえわかっていなかったにもかかわらず。それでも、こうして大人になって、久しぶりに「トイストーリー」を見てみても、やはり面白い。そして、子どもの頃に気づけなかったことがたくさん見えてきて、それもとても面白い。同じところで涙を流せば、不意打ちのように涙が流れてしまうところもある。
映画は出会うものだ。もしこの映画を手にとってないまま、人生を終えてしまったらどんな人生を歩んでしまうのだろうとまで思う。
人生は多くの選択で溢れている。
どこかで羽ばたいた蝶が、遠くで竜巻を起こす原因になったりするように(バタフライ効果)、ちょっとした選択の違いが、のちに大きな差を生むことだってある。だから、選択は慎重にしなければならない、と思うが、果たしてその塾考を重ねたその選択が正しいと誰が証明できるだろう?
例えば、僕が12月9日に行くはずのロサンゼルス行のチケットを今ここで破り捨てたら一体どれほどの人生が変わるだろうか。
「破る」「破らない」の二つの選択があったとして、どちらの選択が正しいと言えるのだろうか。
意外に思えるが、正解はないのだ。ロサンゼルスに行けば、ロサンゼルスで起きるシナリオが待っているし、そのままここに待機していても、オハイオで起きるシナリオが待っている。そして僕はそのどちらかしか体験することができない。ロサンゼルスに行って、そこで運命的な出会いをするかもしれないし、オハイオに待機して、ロサンゼルス行の飛行機が爆発するニュースを目にするかもしれない。
僕は大学受験に一度失敗したが、一発で受かっていれば、きっと今のこの状況は起こり得てないだろうと思う。もちろんそれもあくまで推測にすぎないわけだけれど。
僕はこの今の人生にとても満足している。心から満足している。これほどないまでに満足している。
でも、もしかしたら、もっと楽しい人生があったかもしれない。もしかしたら、恐ろしく酷い人生になるかもしれない。だけれど、「選ばなかった方の人生」をこの世の誰が体験できるのだろうか。
「こっちにしなければよかった」とはよく聞くセリフだが、本当にそうだろうか?選択に優劣なんてものはあるのか?
この記事で語ったことは僕の哲学であり、人生観であり、ライフラインでもある。
僕は後悔は死んでもしない。死んだとしても後悔はしない。
僕の人生は常に、幸せの絶頂のピークを突き進んでいる。僕は、僕がした選択の全てが最高の決断だと信じて疑わないし、たとえ、それで酷い目にあったとしても、これで済んで良かったと本気で思い込んでいる。もっと酷い目にあうかもしれなかったのだから。
「選ばなかった方の人生」に焦がれる必要がどこにあるのだろうか。そんなの宝くじが当たるまでの絵空事と何の違いがある。
人生というものは全て最善の方向で進んでいる。これ以上ないほどぐらい調子良く進んでいる。これは世の中全ての人間、全員共通である。
ただ、間違ってしまったことはしっかり反省しなきゃね。あんまりそこに馬鹿正直にならないように。
どっちやねん!!そう、これが哲学・・・・・・。
『Mr,Nobody』を見終えて。
それは今が深夜の2時にさしかかるからであるし、淹れたてのコーヒーを片手にハーシーズのキスチョコをつまんでいるからでもあるし、何より大きいのは先ほど、久しぶりにこれだ!という映画に出会えたからなのかもしれない。
その映画のタイトルは『Mr.Nobody』といった。
この記事ではこの映画の内容について触れるつもりはないけれど、それでもこの映画は僕にとってかけがいのない映画となった。
映画は面白い。
僕が映画を本格的に見始めたのはほんの2年くらい前のことだ。きっかけは覚えていないし、これも村上春樹同様、当時好きだった子に影響されて見始めたのかもしれない。男の人生の多くは女の子に影響される。これはあくまで一般論だ。
映画を記録するアプリをダウンロードして、見た映画、見た映画に、自分のお気に入り度、そして軽く一言を添えて、記録していった。その作業が結構楽しくて、そして、映画自体もまたとても楽しくて、僕はどんどんと画面に吸い込まれるようにはまっていった。
僕は週に7本の映画を見て、月に5回映画館に行って、年に5回『インセプション』を見返し、累計30分間に渡り、『ワンデイ』を見て涙を流した。
気づけば、誰がする映画の話にも僕はついていけるようになった。誰かが映画のタイトルを言って、他の3人が、首をかしげる中、僕だけが息巻いて「いいよねそれ!!」と両手を挙げることが何度もあった。そして次第に僕の元に映画が好きな人が自然と集まってきた。いや、お互いに引き寄せあったのだ。そして僕たちは共に映画を観に行き、共感しあった。ポップコーンを取る手が何度かぶつかりあいながら。
「映画に出会う」というフレーズはよくいったもので、まさしく映画とは出会うものである。
それこそ、「運命の映画」に出会うこともある。そしてそれは、案外、「運命の人」に出会う確率と同じくらいだったりする。
映画だって、もちろん全てが良い映画というわけではない。人はいろんな価値観を持っているから、賛否両論ある映画もあれば、誰が見てもダメ映画だという代物だってある。そんなときは、この二時間は一体なんだったんだろうと考えざるを得ない。きっと忍耐力テストか何かだったのだろうと、半ば強引に首を縦に振ってみる。それなら僕はなんとか耐え切ったから、明日もまた頑張ろう、などと天井を見上げながら、目を閉じて、その一日を終える。もちろん翌日には忘却の彼方だ。
けれども、ごく稀に、これは素晴らしいじゃないか、という映画に出会うこともある。「まさしくこれは僕のための映画じゃないか」、そんな気さえ起きる。この映画が女の子なら僕は間違いなく結婚するべきだとまで思う。そういう映画は、人生を通して、なんども繰り返してみる。映画は二回目からがスタートラインだ。子どものころに、それこそアンディと同い年だった頃に、『トイストーリー』のビデオをこれほどかというまで繰り返して見た。占いおもちゃを手にとって言う、「望み薄?あ~あ!」というウッディのセリフが今でも耳に残っている。当時は「望み薄」という言葉の意味さえわかっていなかったにもかかわらず。それでも、こうして大人になって、久しぶりに「トイストーリー」を見てみても、やはり面白い。そして、子どもの頃に気づけなかったことがたくさん見えてきて、それもとても面白い。同じところで涙を流せば、不意打ちのように涙が流れてしまうところもある。
映画は出会うものだ。もしこの映画を手にとってないまま、人生を終えてしまったらどんな人生を歩んでしまうのだろうとまで思う。
人生は多くの選択で溢れている。
どこかで羽ばたいた蝶が、遠くで竜巻を起こす原因になったりするように(バタフライ効果)、ちょっとした選択の違いが、のちに大きな差を生むことだってある。だから、選択は慎重にしなければならない、と思うが、果たしてその塾考を重ねたその選択が正しいと誰が証明できるだろう?
例えば、僕が12月9日に行くはずのロサンゼルス行のチケットを今ここで破り捨てたら一体どれほどの人生が変わるだろうか。
「破る」「破らない」の二つの選択があったとして、どちらの選択が正しいと言えるのだろうか。
意外に思えるが、正解はないのだ。ロサンゼルスに行けば、ロサンゼルスで起きるシナリオが待っているし、そのままここに待機していても、オハイオで起きるシナリオが待っている。そして僕はそのどちらかしか体験することができない。ロサンゼルスに行って、そこで運命的な出会いをするかもしれないし、オハイオに待機して、ロサンゼルス行の飛行機が爆発するニュースを目にするかもしれない。
僕は大学受験に一度失敗したが、一発で受かっていれば、きっと今のこの状況は起こり得てないだろうと思う。もちろんそれもあくまで推測にすぎないわけだけれど。
僕はこの今の人生にとても満足している。心から満足している。これほどないまでに満足している。
でも、もしかしたら、もっと楽しい人生があったかもしれない。もしかしたら、恐ろしく酷い人生になるかもしれない。だけれど、「選ばなかった方の人生」をこの世の誰が体験できるのだろうか。
「こっちにしなければよかった」とはよく聞くセリフだが、本当にそうだろうか?選択に優劣なんてものはあるのか?
この記事で語ったことは僕の哲学であり、人生観であり、ライフラインでもある。
僕は後悔は死んでもしない。死んだとしても後悔はしない。
僕の人生は常に、幸せの絶頂のピークを突き進んでいる。僕は、僕がした選択の全てが最高の決断だと信じて疑わないし、たとえ、それで酷い目にあったとしても、これで済んで良かったと本気で思い込んでいる。もっと酷い目にあうかもしれなかったのだから。
「選ばなかった方の人生」に焦がれる必要がどこにあるのだろうか。そんなの宝くじが当たるまでの絵空事と何の違いがある。
人生というものは全て最善の方向で進んでいる。これ以上ないほどぐらい調子良く進んでいる。これは世の中全ての人間、全員共通である。
ただ、間違ってしまったことはしっかり反省しなきゃね。あんまりそこに馬鹿正直にならないように。
どっちやねん!!そう、これが哲学・・・・・・。
『Mr,Nobody』を見終えて。