なんて自分は幸せな人間なのだろうと、突然ふと思う。落葉散りばむ日曜の秋の昼下がりのことだ。10月という季節は僕にとってなにかとセンチメンタルな時期だ。窓を通して見えた、ゆるやかに揺れる色彩豊かな葉が、僕をまた感慨深くさせる。今朝10時頃に僕はゆっくりと目覚めた。ぼんやりとした夢の影に背中を追われながら。それから熱いシャワーを浴び、コーヒーを淹れた。ミルクは切らしていた。20分かけて1ガロンのミルクを買いに行かなくては。何をどうもってして、これを最寄りのスーパーと呼ぶのだろうか、僕は半ば憤慨しながら、デスクチェアーに座った。とりあえずiPadの充電が終わるまでは読書でもしようか、と『海辺のカフカ』を手に取る。まだ僕は完全に読み終えてないが、『海辺のカフカ』は15歳の少年の家出の話である。家出とは自由の獲得である。自分の人生の獲得である。残念ながら僕はカフカ少年と同時期の15歳の頃にこの本を手に取れてはいない。初めて手に取るのはそれから7年後のことである。だけれど、22歳の僕はこのカフカ少年と、自由の獲得という点で共通している。モラトリアムの享受。アイデンティティの確立。社会的責任の回避。自意識の過剰。

昨夜はハロウィンパーティであった。
若者の若者による若者のためのハロウィンだった。彼らの誰もが主役だった。若者が世界で一番強く、輝いていた。皆、日本では考えられないほどに凝ったコスチュームを着こなし、何か意味の無いようなことを叫びながらダウンタウンを練り歩いた。街をただあても無く歩くだけで良い。それだけで皆主役になれた。

それから12時間ほど経った今はもちろん嵐が過ぎ去ったかのように静かな時が流れている。

僕は5日間8時間働き続ける大変さを知らない。家族を持つ大変さを知らない。僕はいま、仕事を一つも持たず、家族からはなれて遠いアメリカで一人暮らしをしている。僕は一年間浪人をして、一年間休学をしている。周りより二年間多く与えられた時間を僕は、本を読み、映画を見て、人と話して笑って過ごす。

モラトリアムはもうとっくに折り返し地点を過ぎている。僕は立派な大人になれるのだろうか。「大人になりたくない」とはよく聞く台詞だ。大学四年生と、社会人一年生ではどれほど人生が変わってしまうのだろうか。僕が帰国をする頃は、僕の大好きな友だちは皆社会人としての一歩を丁度踏み出したばかりの頃である。

僕は英語教師になる。未来の話だが、mustが使えるほど確実に僕は英語教師になる。僕が四年間に渡って暖めてきた夢だ。僕は浪人したときにその夢を決め、「まず英語の免許がとれる学部」「一年目は個別塾講師のアルバイト」「二年目以降は集団塾講師のアルバイト」「英検の取得」「留学」と次第に、そして着実に英語教師への道のりを明確にしてきたのだ。僕が父親のラーメン屋の仕事を継いで、湯切りに勤しむことはきっと無いであろう。小学生の頃はそんなことも考えてみたものだが。

どうして僕が教師になりたいかといえば、本当にたくさん語ることはあるけれど、この記事に即して言えば、学生の人生に関わりたいからである。どうしても彼らの、そして今の僕の人生のような、自由で何でもでき、夢に満ちている人生に関わっていたいのである。大人たちしかいない職場なんてまっぴらごめんである。

そんなことを思う10月のセンチメンタルな季節。モラトリアム、若者、学生について深く考えてみた。(ちなみに僕は田村カフカ君が現実にいたら酒を飲みながら同僚に愚痴りそうです)