ミッドナイトインパリ、という映画をみた。
フタバ図書という僕のお気に入りのレンタルDVD屋さんが、準新作80円レンタルという暴挙に出たので、前々からみたいと思っていたミッドナイトインパリを借りることにしたのだ。旧作待ちになる手間が省けて非常に良かった。
物語は素敵なファンタジー。
まさにデートムービーに持ってこいなホッとするラブストーリーである。
パリに婚前旅行に来た男女。
作家志望の男はある夜妻と離れてパリの街をうろつく。そこは深夜0時の鐘がなると、1920年代のパリにタイムスリップしてしまう不思議な空間だった。
こんな感じであらすじなってるかな。
1920年代といえば、少しばかし教養を持つと黄金の時代だとわかるわけだ。
というのは、アメリカ文学では、ロストジェネレーションといわれた作家たちが現代にも残る偉大な作品を残していた。
それは、フィッツジェラルドであり、ヘミングウェイであり、フォークナーであった。
そして、絵画に至れば、それはピカソであり、ダリなのだ。
主人公の男は深夜0時の鐘がなると現れる車に乗ることで、このようなかの有名な芸術家にこれでもかと出会いまくる。
フィッツジェラルドに出会ったとき、僕は感動した。
フィッツジェラルドもまた、あのギャツビーと同じように日常語で「オールドスポート」と言うのだ!
この感動はきっと大学でアメリカ文学を学んでいなければ味わえなかったであろう。
もう一つある。
ヘミングウェイにバーで会ったシーン。
ヘミングウェイがマークトウェインについて語り出す。
それに対して主人公はこう返す。
「確かにマークトウェインは素晴らしい作家です。全てのアメリカ文学は彼のハックルベリー・フィンに通じます」
これは少々アメリカ文学に詳しくなったものにはニヤリものである。
なぜならばこの言葉はヘミングウェイの言った言葉で最も有名なものの一つなのだから。
いや、お前本人の目の前で堂々とパクるなよって笑った。
これまで述べた二つのシーンのように、ニヤリと出来るシーンが山のように出てくるこの「ミッドナイトインパリ」
主人公が作家志望なのだからきっとその喜びもひとしおだろう。
しかし、我々のほとんどは彼と同じくらいに楽しむことができないのがこの作品の特徴でもある。
というのは、正直なところ、僕が大学に入ってアメリカ文学を学ばなければ、先ほどのシーンは何一つ楽しみ方がわからない、ということだ。
それは例え僕が経済学に没頭して、「全ての物事は微分と積分で解決できる」と熱く語り出したとしても、だ。
アメリカ人のほとんどが夏目漱石が1000円札の肖像だったことを知らないように、豊臣秀吉が、織田信長の草履を温めたことを知らないように。
僕らが義務教育を通して常識的に知り得る物事が、外国人にはまるで未知の世界であるかのように、僕らも自ら意識して教養を高めていかない限りはフィッツジェラルドがアルコール中毒で人生を崩壊させてしまったことを知ることはできないのだ。
そこが、この作品の難しいところであり、面白いところだ。
ねえ、僕らの多くはグレートギャツビーを読まずにしんでしまうんだ。悲しいね。
監督・脚本はウディ・アレン。
僕はこの作品ほど、作っている時の監督のにやにや顔が浮かんだものは無い。
きっとめちゃめちゃに楽しかっただろう。
この作品の主人公はまさにウディ・アレン本人の投影であることは間違いなくて、それが1920年代の偉人に出会いまくるというこの作品のプロットはまさにウディ・アレンの夢の実現なのである。
まさに自己表現出まくり。
言うなれば彼の自己満足の塊なのである。
(余談だが、僕はフィッツジェラルドやヘミングウェイに会ってみたいが、夏目漱石や芥川龍之介にはあまり会いたいとは思わない。何故かはわからないけどね。なんか不思議だなと思っただけ。)
しかし、作品っていうのはこういうものなのだ。
小説も映画も絵画も。
現代文の参考書によく出てくるセリフを久しぶりに持ち出すが、
絶対に作品には「作者のイイタイコト」が必ずある。
どんな小説にもどんな映画にも。
というか、イイタイコトがなければ作品は作れないし、イイタイコトがあるから作品は作品たり得て、評価されるのだから。
僕が映画でも小説でもそのイイタイコトというものをしっかり意識して楽しみ出したのはごく最近だ。
それがより理解でき始めたのは小説をそれなりに書き始めてからだ。
ここに比べるように置けるほど僕の小説はまるで優秀ではないけれど、それでも1度でも小説を書いてみるとわかる。
作品っていうものは自己表現なのだ。
小説、映画に出てくるセリフっていうのは全て作者の頭の中から出てきたもので、それは誰が喋ろうと全て作者の自己表現だ。
僕だって、今まで書いた記事の内容を、どこかミステリアスな雰囲気を醸し出す女性にセリフとして喋らせてしまえばそれだけで、小説の一場面となってしまう。
このミッドナイトインパリでも、明らかにここがイイタイコトだ!ってシーンがあったのだけど、そこは見てのお楽しみ。
でもどう見てもそこは他とは格段に強調されて表現しているから簡単に見つけられる。
多分、人にはその度合いの違いはあれど、どうしても自分の考えを表現したいってことがあるのだ。
そしてその自己表現の方法のツールとして生まれたものが、小説であり映画であり、絵画であり、音楽なのだ。
それらは口頭とは違い、あまり押し付けがましくない形で自己表現できるとても優秀なツールなのだ。
僕は今まで小説ならそのストーリーを楽しむだけだった。映画なら、スペクタクルな映像に鳥肌を立て、舌を巻きはしたけれども、イイタイコトの意識はしなかった。
音楽も歌詞はよく見なかった。メロディが良ければ好きだった。
しかし今はそれなりにわかる。
そして、全ての作品には作者のイイタイコトがあっての自己表現なのだ。
作品はやはりその作者にしか作ることはできないし、作者自身なのだ。
そしてそれがわかってしまえば、あとはその作品をより一層に楽しむのみ。
そんなことを思った一日でした。
(僕の自己表現、終わり。)
フタバ図書という僕のお気に入りのレンタルDVD屋さんが、準新作80円レンタルという暴挙に出たので、前々からみたいと思っていたミッドナイトインパリを借りることにしたのだ。旧作待ちになる手間が省けて非常に良かった。
物語は素敵なファンタジー。
まさにデートムービーに持ってこいなホッとするラブストーリーである。
パリに婚前旅行に来た男女。
作家志望の男はある夜妻と離れてパリの街をうろつく。そこは深夜0時の鐘がなると、1920年代のパリにタイムスリップしてしまう不思議な空間だった。
こんな感じであらすじなってるかな。
1920年代といえば、少しばかし教養を持つと黄金の時代だとわかるわけだ。
というのは、アメリカ文学では、ロストジェネレーションといわれた作家たちが現代にも残る偉大な作品を残していた。
それは、フィッツジェラルドであり、ヘミングウェイであり、フォークナーであった。
そして、絵画に至れば、それはピカソであり、ダリなのだ。
主人公の男は深夜0時の鐘がなると現れる車に乗ることで、このようなかの有名な芸術家にこれでもかと出会いまくる。
フィッツジェラルドに出会ったとき、僕は感動した。
フィッツジェラルドもまた、あのギャツビーと同じように日常語で「オールドスポート」と言うのだ!
この感動はきっと大学でアメリカ文学を学んでいなければ味わえなかったであろう。
もう一つある。
ヘミングウェイにバーで会ったシーン。
ヘミングウェイがマークトウェインについて語り出す。
それに対して主人公はこう返す。
「確かにマークトウェインは素晴らしい作家です。全てのアメリカ文学は彼のハックルベリー・フィンに通じます」
これは少々アメリカ文学に詳しくなったものにはニヤリものである。
なぜならばこの言葉はヘミングウェイの言った言葉で最も有名なものの一つなのだから。
いや、お前本人の目の前で堂々とパクるなよって笑った。
これまで述べた二つのシーンのように、ニヤリと出来るシーンが山のように出てくるこの「ミッドナイトインパリ」
主人公が作家志望なのだからきっとその喜びもひとしおだろう。
しかし、我々のほとんどは彼と同じくらいに楽しむことができないのがこの作品の特徴でもある。
というのは、正直なところ、僕が大学に入ってアメリカ文学を学ばなければ、先ほどのシーンは何一つ楽しみ方がわからない、ということだ。
それは例え僕が経済学に没頭して、「全ての物事は微分と積分で解決できる」と熱く語り出したとしても、だ。
アメリカ人のほとんどが夏目漱石が1000円札の肖像だったことを知らないように、豊臣秀吉が、織田信長の草履を温めたことを知らないように。
僕らが義務教育を通して常識的に知り得る物事が、外国人にはまるで未知の世界であるかのように、僕らも自ら意識して教養を高めていかない限りはフィッツジェラルドがアルコール中毒で人生を崩壊させてしまったことを知ることはできないのだ。
そこが、この作品の難しいところであり、面白いところだ。
ねえ、僕らの多くはグレートギャツビーを読まずにしんでしまうんだ。悲しいね。
監督・脚本はウディ・アレン。
僕はこの作品ほど、作っている時の監督のにやにや顔が浮かんだものは無い。
きっとめちゃめちゃに楽しかっただろう。
この作品の主人公はまさにウディ・アレン本人の投影であることは間違いなくて、それが1920年代の偉人に出会いまくるというこの作品のプロットはまさにウディ・アレンの夢の実現なのである。
まさに自己表現出まくり。
言うなれば彼の自己満足の塊なのである。
(余談だが、僕はフィッツジェラルドやヘミングウェイに会ってみたいが、夏目漱石や芥川龍之介にはあまり会いたいとは思わない。何故かはわからないけどね。なんか不思議だなと思っただけ。)
しかし、作品っていうのはこういうものなのだ。
小説も映画も絵画も。
現代文の参考書によく出てくるセリフを久しぶりに持ち出すが、
絶対に作品には「作者のイイタイコト」が必ずある。
どんな小説にもどんな映画にも。
というか、イイタイコトがなければ作品は作れないし、イイタイコトがあるから作品は作品たり得て、評価されるのだから。
僕が映画でも小説でもそのイイタイコトというものをしっかり意識して楽しみ出したのはごく最近だ。
それがより理解でき始めたのは小説をそれなりに書き始めてからだ。
ここに比べるように置けるほど僕の小説はまるで優秀ではないけれど、それでも1度でも小説を書いてみるとわかる。
作品っていうものは自己表現なのだ。
小説、映画に出てくるセリフっていうのは全て作者の頭の中から出てきたもので、それは誰が喋ろうと全て作者の自己表現だ。
僕だって、今まで書いた記事の内容を、どこかミステリアスな雰囲気を醸し出す女性にセリフとして喋らせてしまえばそれだけで、小説の一場面となってしまう。
このミッドナイトインパリでも、明らかにここがイイタイコトだ!ってシーンがあったのだけど、そこは見てのお楽しみ。
でもどう見てもそこは他とは格段に強調されて表現しているから簡単に見つけられる。
多分、人にはその度合いの違いはあれど、どうしても自分の考えを表現したいってことがあるのだ。
そしてその自己表現の方法のツールとして生まれたものが、小説であり映画であり、絵画であり、音楽なのだ。
それらは口頭とは違い、あまり押し付けがましくない形で自己表現できるとても優秀なツールなのだ。
僕は今まで小説ならそのストーリーを楽しむだけだった。映画なら、スペクタクルな映像に鳥肌を立て、舌を巻きはしたけれども、イイタイコトの意識はしなかった。
音楽も歌詞はよく見なかった。メロディが良ければ好きだった。
しかし今はそれなりにわかる。
そして、全ての作品には作者のイイタイコトがあっての自己表現なのだ。
作品はやはりその作者にしか作ることはできないし、作者自身なのだ。
そしてそれがわかってしまえば、あとはその作品をより一層に楽しむのみ。
そんなことを思った一日でした。
(僕の自己表現、終わり。)