偶然の体験の積み重ね(神、天地、陰陽などの関連性の意識強化)が皆さんの言う、可能性への飛躍を夢でなくて現実に成るという強い信念・・・意識の切り替え、強く信ずる心や、この世は幻影である!というような事実的な「真念」が体験に成って生まれてくるのだと思いますよ!
※幻影だから奇天烈な事をすればよいという訳にはいかないあたりが難しいところですが、求めて内分を確かめ理解を努める努力と常々意識していればなんとやらです。この世は霊的向上をする為の世界だったってことですね。
だんだんと分かってきた事ですが、人が一人気づく度に、人々は知らずのうちに霊的な向上が進んでいるようです。しかしながら、この世が霊的向上の世界であると思えるようになってきたら、意識的に霊的な向上をしようとしない人生は何と勿体無い事をしているのかという気がする訳です!これを言い換えると、これこそが神のお手伝いなのでは?!と思えてきました。一人の気付きが大勢の気づきに繋がっている様がわかればこそです。これもシンクロニシティから感知できることなのです。
偶然という体験を意識し、その理解から神の存在を信じれるようになったらならば、神はこの世のすべてである!という事には異論はなくなるでしょう。私達は神そのものである!神々や天使も私そのものである!では、神は一体何をしているのか?自作自演している?!では、なんで、神にはこのような世界が必要で、神自身の向上が必要なのか?!なぜ、私達は盲なまま、メッセンジャーからも尊敬されるような一番厳しいと言われる密度の世界に住んでいるのか?
その辺りを考えると面白いかもしれませんね。こんなにも荒くるしく辛い世と感じるかもしれませんが、しかし神自身の事であるわけですから、自虐や罰ではないことは確かでしょう。我々の世界で言うならば、それは政治家にこそ貫いてほしい姿かもしれません。
(平身平頭、高い位置にいながらも我を出さない姿。選挙前は建前であってもそうなのですけどね。世界中の人々がそうであれば、どれだけ素晴らしい世になるでしょう?想像しなくてもわかりそうなものです。)とは言え、個人は個人、それはそれ。外ばかり見ていては一番大事な神の一部である自身についての向上がありません。
http://www12.plala.or.jp/gflservice/ArcturusGroup140622Truth.html
※この神でさえ我で失敗されたのであるぞ。 ひふみ神示より。
個人個人の本質は一部だとしても神そのものであるわけで、本質は巨大なパワーを持った存在である事でしょう。神自身が個として体験し自身の至らぬ所(次の世にもっていけないもの)をサニワ(チェック)しているようなものでしょう。要は何もかも全て神の予測通りということ。
神の心意気からは、個人個人は、自己中、物質主義的な力や権力を持ってで動かすような、この世の政治家や元首、経済界のなんとやら、などと言われるリーダーよりも大きな使命や、新たな次元や死後の世界の何かしらの統治の任を負って生まれて来ているのかもしれない事が見え隠れしてきます。偶然の理解から、点と線を結びてけていけば行くほどにそう思えてくるでしょう。
この世のあり方のような政治家やリーダをやったら別の世で通用するというようなものではないのが明白になってくるところです。そうすると神は何と立派な存在でどれだけ立派な建て替えをしようとているのだろうか?と思えてくるでしょう。その世界観に心から乗れる事(内面の向上に向け行動する)こそが意志固めであり意乗り、意識の乗り換えではないだろうか?霊的向上(霊主体従に繋がる事)につとめているならば自身についても褒め称え自愛することができるようになってくるのではないでしょうか。
※今度ばかりは灰にする者は灰にするぞ! ひふみ神示より。
これは脅しやケツたたきというより、霊的な水準(波動)が違いすぎれば、そこに住んでみたところで想念的に合わないため、住んでみも地獄のようなものであり、住みづらいだろうから、灰にする方がその者にとっての幸せであると言っているのだと思います。または、体に巣食っている外道(幽界)な意識等のことのような気がします。いづれにしろ、全ては神自身であり自身の体の事です。自身を救うことは神を救うともありますし、例え外道な意識kでも改心できれば一つの世界を救うことであり進化弥栄が可能なのでしょう。ただし、幽界の気からは離れ神界の気に繋がる事が解決策なのでしょう!と今ここ、地上にいながら天国の中に生きていく事が、その状態で移行していく事について言っているのだと思います。
天国とは、これまた、人が思っているようなエゴ的な空想の世界の事ではなく、様々な霊団の支援によって自身の想念があたかも魔法のように実現される世界だと思えばなんとなく想像がつくものではないでしょうか。それには、今までのような四方八方の平面的ではなく、霊(人の存在も含めて)を合わせた全てのための十方的な世界、霊主体従の意味の大事さがわかってくると思います。それにはそれなりの思考や言動、感謝などの建前ではない意識が染み付いた、真の姿となる必要があるのではないでしょうか。
※天の数二百十六、地の数百四十四、イザナギ、二とイザナミ、三で融合して五、五は三百六十 ひふみ神示より。
これが、八卦の理論と関連ある事はわかっていたのですが、単なる占いと思ってました^^;というか、単に八卦に興味がなかっただけという話もwそこから孔子の名前が浮かび上がり・・・ついには繋辞伝につながり、やっと自身の体験と合致(シンクロ)する理解に至ったりました。
それは、孔子やそれ以前の賢者達は八卦によって占いがしたかったというよりも、太極を極めようとしていたのではないかと思えた事でした。おそらくそうでしょう。繋辞伝を読んでいると、太極の意識に至った時に神や天の存在が地に働きかけている事がわかったようです。孔子はそこに天地の存在を感じ理を感じたのでしょう。
更に、太極から生ずる様々な現象が発生する理由や変化、パターンを見抜ければ、何事にも動ぜず安心立命であると説いているようです。また、それを分析し体系化したのですね。様々な現象を理解し安心を極めるために使うなら役に立つかもしれない八卦だとも言えそうです。
まさに、孔子が伝えようとしている事はシンクロニシティが起きるという事であると思いました。八卦で言うところの太極の位置にあって初めて神の青写真と想念が一致したかごとく、十方的に影響を与えているかの如くに感知できるのです。今、シンクロニシティを通して起きていることは自身の想いや意識を向けている事に対する結果、引き寄せ的、波及的な認知のそれなのです。
さらに、「自身」が太極を極めて初めて八卦がまともに稼働しだす(占える、見いだせる、所・位・順に応じた変化を理解できる)という事を言っているのでしょう。霊的向上を目指し、倫理を向上しつつ、更に霊的向上を目指しつつ、天地の理と深く関わり知っていく事で、安心立命で生きていく事の重要性を語っているのが、八卦の要なのではないかと思いました。
調べてみた結果、ほとんどそのような発想をされている人はいないようです。そりゃ、あたらないだろうって思いました。当たるも八卦あたらぬも八卦止まりなわけです。しかも、太極は自身が極めればこそですし、更に、どうやって他人の太極より(その状態の判別だって・・・)発生する事まで占うのかと・・・ちょっと疑問に思いました。ここでも自身を救えるのは自身のみという教訓がでてきます。
八卦から生まれた太極拳や八卦拳というものもあるようですが、極めれば幸せになるというなら、気づきの波及効果を見ると、世界はとっくに平和であるはずです。特に中国に至ってはそうなっているはずです。それがそうなっていないあたり「何故か?」というあたりを鑑みる必要はあると思います。何か理解が足りていないのではないか?その何かは何か?そういう風に考える所に、また、自己や神秘に繋がりそうな発見があるものです。「武」としての八卦が成っているにすぎないのではないか?と見えてくれば・・・
※神々、神心、神理、神気、神境であるぞ、この交叉弥栄は限りなし、これを五鎮と申すのであるぞ。上天、下地、照日、輝月、光星、これを五極と申すぞ。東木、南火、中土、西金、北水、これを五行と申す。裸物、毛物、羽物、鱗物、甲物を五生と申し、文則、武則、楽則、稼則、用則を五法と申すのぢゃが、それだけでは足りない、その中に〇があるのぢゃ、大神がましますのぢゃ ひふみ神示より。
ああ!なるほど!武則だけだと○から外れているのだな!と解ってくるわけです。または、武に偏りすぎている姿が中国なのかもしれません。まさにピッタリ!?・・・ナドナド。これら、すべてを体得し鍛える必要については、ないと思います。そんな無理を神が示す訳ありません。
私は、八卦何とかや武術等もやってませんし、孔子もやってなかったといいます。大事なことは、個人が創造主の性を持っていて象の中心であるという事を捉えることにあるのではないでしょうか。孔子も野であっても賢者はいると言っています。天の性は皆持っているのでありどんな人でも大事にせよと。よって、天地の象を体験し掴む方向へ向かうことが、全てに繋がるのではないかと思います。
それが、何とも受け入れ難い事かもしれませんが!(笑)偶然といういかにも便りなさそうなものを省みる事で点と線が出来上がり一つの理解に達してくるわけです!理解が進んでくるか、感の良い人ならば、過去に起きた全てが偶然の如く一瞬一瞬奇跡によって成り立っているのだと思えるなら、そのすべてを感謝できるまでに人生を省み中庸できるなら、きっと新しい気付きが起こるのではないだろうかと思います。私がやっている事は大雑把に言えばこれだけのことです。その理解のため(結果的に)にひふみ神示を柱にして、チャネリングメッセージを参考にしています。
ここまでに八卦占いと偶然の理(シンクロニシティ)がつながっているわけです。正式な八卦では百何十回?も占うらしいですが、その出目というか偶然性を見つける為なのでしょう。占いの時、何かを想念している事が必要だと思いますが、中庸した天地の青写真を降ろせる程のクリアな想念(太極者)でなくてはならないでしょう。
もちろん相手もそうでなければ、例え結果が出たとしても、これをエゴと利権、執着絡みだらけの権力者や占ってもらっている人ががハイハイと聞けるはずがありませんし理解もできないでしょう。更に占っている人が太極にいるなんてどうやって知るのでしょう?そりゃ、都合よく占ってもらえばもらうほど外道(天:テンから外れていき、八卦の象の一部が拡大)になっていくわけです。
武則などは天地の気を受けた健康的な様をいうのではないだろうかと思うところです。そういう意味では太極拳などはなかなか的を得たものにも感じます。それを天(テンのない)体(エゴ)中心の人間風の解釈で、武闘、武力、抑圧、侵略・・・の道具と成り下がった!これを外道のエゴ(人の創りだす幽界)そのものといえば、なんともシックリきます。
これは妄想の域ですが(そもそも八卦はしないので)、八卦の使い方を、外向き(商売等)から、内向きに変え、自己の中心に向かう道具にすれば、二(天地の根源)+八(平面の象)で十(全方向)の認識へ向かう事を示しており、その中心に近づくほど太極が極まり、その秘訣は、霊が主、体が従でしょう!天の霊が三、地の霊が二。
天地融合と成り働きが生まれる五。それは人の型で表されており、地上における地上人の本質は神の代理、神人であり、天地(神界)の働きを助ける「象」の中心源(太極)である主というわけでしょうか。偶然からの気付きは、よく観察してみれば「象」の中心からの現れになっているかもしれません。または、中心に向かっていることでしょう。それには、思考や心の動きを観察することが必要です。
古今東西、体が主になっている人々が、神の働きに気づかず(物質中心に働いている様)、よって、世のリーダー達までが平身平頭でいられない姿、どこまでも身を低くしても足りないくらい(神=すべてより、与えられている様)・・・
自身を個であると考えれば解ることですが、大きなかの小さき者として全てによって恵みを与えられてるという事実に気づかず、全ての存在である神に感謝し敬えないない事は神も自身をも敬えない愛せない事であり、恵みの流れは自身の本質以外の神々(人々や何もかもを含めての存在)様の本質の働きからも流れてくるのであるという事を理解できてないか、さらに霊的な向上がされない状態になっているという事が世の乱れの原因になっているとも解けるでしょうか。
※もうちょっとましな説明が近いうちにできそうな気がしています。w
これでなぜ、ひふみ神示の中で、十柱の一人として孔子がでてくるのかという謎が解けたような気がします。※謎として解こうなどとはそもそも思ってもいませんでしたが。
という訳でチャネリングや巷で囁かれるような神秘体験ができなくても、偶然に理(意味など)がある事を認識できるならば、シンクロニシティを体験していく(意識している)事によって今ココや時空を超えた存在達についての理解が広がるという重要なポイントではないでしょうか。