アセンション日、前後を通して感じたこと。
・周囲・・・相変わらず。。。全ての態度が、変わらない(ようにみえる)。
その為、無くなってしまえばいいとか、どこからとなしに、思ってしまう人もいるのでは。だけど、迷惑をかけるつもりも、かけられたくもなく、自分が嫌いなのかといえば、そうではなく。この世の中で醜い事を想像する他人と過ごす事につかれてきた人も多いだろう。これが皆にとって幸せだというのなら、勉強だというのなら、じゃまもしたくなく、余計な事もしたくなく・・・だったら、自分が無くなればいい!とか、そんな発想になる。
世界で戦争が無くならず平和が訪れない事に関して、相変わらずアセンションの変化の話に対して、人々の変化が少ないように見える事に関して、自分や他の人達の想念や思考だったり態度が悪いのだという発想であろう。そして、何かが変わらないように見える事を他人のせいにしたいんだろう。自分は対応しようとしているのに!という感じだろうか。家族やちっぽけなコミュニティでさえそう思う事があるのに・・・だから、もう、皆さんとは関わりあいたく無い。そんな思いが伝わってくるのだと思った。
これは、憎悪と愛への分かれ道ではないかと気づいた。そして、この心理レベルでは、愛を語っているが、まだ、憎悪への望みと愛へ昇華する事の望みが交差する二元性の中に住んでいるのである。まだ、その憎悪的な事に関して自制があるうちか、もやもやしているだけの間はいいが、これに気づかずに行動に発展すれば危険である。
こういう時は、至高のマインドで考えているつもりになっているため、ちょっとキッカケが在れば行動に移りやすいだろう。思考やマインドが異常に成った訳でなく寧ろ全くの正常であるがため、穢れを破壊することが信念となってしまっているだけに怖い話である。
時の権力者や、なんとも善人だと言われていた人々が、人生や人の幸福を真面目に考え、その者の至高の善(※そのレベルでは実は正義を語ったエゴ、欲望の塊り、カルマ的な支配をされているレベル)により、愛でなく憎悪を選択をし、歴史上の恐怖として実現されてしまうプロセスではないだろうか。そうなると愛に昇華できずに憎悪を選択した破壊王の誕生である。
※破壊王としたのは神は愛以上の存在のため。仮に神を概念だとしてもこの説明を否定する理由はないと思われる。
では、何故、善人っぽい人までもがそんなロジックにハマってしまうのだろうか。それは、無条件の愛を獲得するための条件が邪魔をしているのではないかと思った。もともと波動の高い人達や愛(神)に向かって昇華中の人なら、世の中の穢れが目に見えて感じ取れるわけであるのだ。その波動の論理である。例えば、神の理想の世界にアセンションするためには波動を上げなければならないが、そのために現界にて対応しなければならない必須のいろんな条件が生まれる。
真の理想の為に昇華を実践するには、世の中のあらゆる物質的な物事が対象になるが、その中での何事に関しても選択の範囲が限られたり狭すぎたりしてくるわけで、個人として気持ち良く生活するのには非常に不便である。波動向上を実現、維持する為には邪魔なものが沢山、存在しすぎるのだ。
世の中の全てと言っていいくらいがそれほどまでに、波動が落ちている事が迷惑だという事になるのである。そして、少しでも変化はあるのかもしれないが、なかなか変化がみえなくなってくるわけである。そうすると、そういう物事をなくす為に何かをするとか、自分がいなくなるか?とか、すべてがなくなればいい。いう選択になってくる。
何故、そんな事を考えるのか。最初に言っておくと、「無条件の愛に成りきれていない」事がその原因である。では、続けて、何故そんな事を考えるのか。その根底にあるものが、その人の欲しいものであるのではないだろうか。名誉や栄誉?正義?愛情?平和?穏やかさ?
もし、ここで誰かに正義感を煽られたり、勇気をそそのかされたりして、怒り、恥と言ったものが、他の命への不安や、恐怖等の不愉快さに変わる選択をしてしまったら、その時点で、その者は、あと一歩の所で愛の入手が困難になるだろう。愛には憎悪(恐怖に因むもの)は含まないのである。
だが、やってしまうのは、根底の怒りからくる、名誉・栄誉心というものなど、自分の欲求だけに対するエゴが働く(有る)からである。正義感というエゴである。それが、歴史上の残念な支配者や宗教家達のやったことである。途中までは立派だったのに、突然、精神がおかしくなったかのように見える理屈ではないかとおもった。実は精神もマインドも正常であり、正義という信念であるため、一度、火の種がまかれるとやっかいであり取り返しのつかないことになるのである。上に立つものは、愛を得れれば大きいが、その道のりは大変であろう。
そのロジックから抜け出すことは簡単である。単に、無条件の愛を思い出すことである。だが、そのロジックに一旦ハマると、分かっていながらなかなか、無条件の愛を思い出そうにもなかなか思い出せないのである。「私は、いつも、無条件の愛である」かどうか、そこのところを確認すると良い。無条件の愛が思い出せなくなったら、愛を再び獲得する為に、思い通りにならないでいる、何らかの条件を探してみるとよいだろう。
もしあったとしたら、それに対しての許しが必要である。場合によっては、最善の為にいろんな物、事、思いなど執着になる物・事を捨てなければならないかもしれない。愛の選択をすればその瞬間に大いなる者が愛へ導いてくれるのである。その選択に対して周りから何と言われようと、本人は既に愛を選択した事が分かっているのである。どんな鈍感な者でも、その時を思い返して見ると高次の意識、存在を感ずるだろう。そして本人には「それ」がうまく行っている事が分かるのである。
究極の正義や名誉・栄誉心があるなら憎悪の世界に落ちることはないだろう。ただ、それは、愛と同義の言葉でならという意味である。しばしば、正義という言葉が疑問に思えたり、おかしく思えるのは、途中までは愛情溢れる善人だったのに、どこかで、怒りや、恐れに負けてしまい、突然、悪党や狂気の人や国家に成り下がってしまうからでしょう。正義とは愛の人や国家になる挑戦をしている者(達)への言葉ではないだろうか。
また、正義を語っている者達がいるとして、実は正義の仮面を付けて共存している者でも同じ正義レベルであるという事である。寧ろ恐怖をまき散らすような騒ぎをおこさず正義の仮面をかぶりながらでも共存しているとしたら、それは、大変エライと褒めて言えるのである。
・自分がされて嫌なことは他人にしないって事ですかね。逆に言えば、自分がされて嬉しいことは人にしようって事ですかね。これを、動物等ありとあらゆるところまで発展させようというのが、霊的であり、宇宙的なのかも。
・周囲・・・相変わらず。。。全ての態度が、変わらない(ようにみえる)。
その為、無くなってしまえばいいとか、どこからとなしに、思ってしまう人もいるのでは。だけど、迷惑をかけるつもりも、かけられたくもなく、自分が嫌いなのかといえば、そうではなく。この世の中で醜い事を想像する他人と過ごす事につかれてきた人も多いだろう。これが皆にとって幸せだというのなら、勉強だというのなら、じゃまもしたくなく、余計な事もしたくなく・・・だったら、自分が無くなればいい!とか、そんな発想になる。
世界で戦争が無くならず平和が訪れない事に関して、相変わらずアセンションの変化の話に対して、人々の変化が少ないように見える事に関して、自分や他の人達の想念や思考だったり態度が悪いのだという発想であろう。そして、何かが変わらないように見える事を他人のせいにしたいんだろう。自分は対応しようとしているのに!という感じだろうか。家族やちっぽけなコミュニティでさえそう思う事があるのに・・・だから、もう、皆さんとは関わりあいたく無い。そんな思いが伝わってくるのだと思った。
これは、憎悪と愛への分かれ道ではないかと気づいた。そして、この心理レベルでは、愛を語っているが、まだ、憎悪への望みと愛へ昇華する事の望みが交差する二元性の中に住んでいるのである。まだ、その憎悪的な事に関して自制があるうちか、もやもやしているだけの間はいいが、これに気づかずに行動に発展すれば危険である。
こういう時は、至高のマインドで考えているつもりになっているため、ちょっとキッカケが在れば行動に移りやすいだろう。思考やマインドが異常に成った訳でなく寧ろ全くの正常であるがため、穢れを破壊することが信念となってしまっているだけに怖い話である。
時の権力者や、なんとも善人だと言われていた人々が、人生や人の幸福を真面目に考え、その者の至高の善(※そのレベルでは実は正義を語ったエゴ、欲望の塊り、カルマ的な支配をされているレベル)により、愛でなく憎悪を選択をし、歴史上の恐怖として実現されてしまうプロセスではないだろうか。そうなると愛に昇華できずに憎悪を選択した破壊王の誕生である。
※破壊王としたのは神は愛以上の存在のため。仮に神を概念だとしてもこの説明を否定する理由はないと思われる。
では、何故、善人っぽい人までもがそんなロジックにハマってしまうのだろうか。それは、無条件の愛を獲得するための条件が邪魔をしているのではないかと思った。もともと波動の高い人達や愛(神)に向かって昇華中の人なら、世の中の穢れが目に見えて感じ取れるわけであるのだ。その波動の論理である。例えば、神の理想の世界にアセンションするためには波動を上げなければならないが、そのために現界にて対応しなければならない必須のいろんな条件が生まれる。
真の理想の為に昇華を実践するには、世の中のあらゆる物質的な物事が対象になるが、その中での何事に関しても選択の範囲が限られたり狭すぎたりしてくるわけで、個人として気持ち良く生活するのには非常に不便である。波動向上を実現、維持する為には邪魔なものが沢山、存在しすぎるのだ。
世の中の全てと言っていいくらいがそれほどまでに、波動が落ちている事が迷惑だという事になるのである。そして、少しでも変化はあるのかもしれないが、なかなか変化がみえなくなってくるわけである。そうすると、そういう物事をなくす為に何かをするとか、自分がいなくなるか?とか、すべてがなくなればいい。いう選択になってくる。
何故、そんな事を考えるのか。最初に言っておくと、「無条件の愛に成りきれていない」事がその原因である。では、続けて、何故そんな事を考えるのか。その根底にあるものが、その人の欲しいものであるのではないだろうか。名誉や栄誉?正義?愛情?平和?穏やかさ?
もし、ここで誰かに正義感を煽られたり、勇気をそそのかされたりして、怒り、恥と言ったものが、他の命への不安や、恐怖等の不愉快さに変わる選択をしてしまったら、その時点で、その者は、あと一歩の所で愛の入手が困難になるだろう。愛には憎悪(恐怖に因むもの)は含まないのである。
だが、やってしまうのは、根底の怒りからくる、名誉・栄誉心というものなど、自分の欲求だけに対するエゴが働く(有る)からである。正義感というエゴである。それが、歴史上の残念な支配者や宗教家達のやったことである。途中までは立派だったのに、突然、精神がおかしくなったかのように見える理屈ではないかとおもった。実は精神もマインドも正常であり、正義という信念であるため、一度、火の種がまかれるとやっかいであり取り返しのつかないことになるのである。上に立つものは、愛を得れれば大きいが、その道のりは大変であろう。
そのロジックから抜け出すことは簡単である。単に、無条件の愛を思い出すことである。だが、そのロジックに一旦ハマると、分かっていながらなかなか、無条件の愛を思い出そうにもなかなか思い出せないのである。「私は、いつも、無条件の愛である」かどうか、そこのところを確認すると良い。無条件の愛が思い出せなくなったら、愛を再び獲得する為に、思い通りにならないでいる、何らかの条件を探してみるとよいだろう。
もしあったとしたら、それに対しての許しが必要である。場合によっては、最善の為にいろんな物、事、思いなど執着になる物・事を捨てなければならないかもしれない。愛の選択をすればその瞬間に大いなる者が愛へ導いてくれるのである。その選択に対して周りから何と言われようと、本人は既に愛を選択した事が分かっているのである。どんな鈍感な者でも、その時を思い返して見ると高次の意識、存在を感ずるだろう。そして本人には「それ」がうまく行っている事が分かるのである。
究極の正義や名誉・栄誉心があるなら憎悪の世界に落ちることはないだろう。ただ、それは、愛と同義の言葉でならという意味である。しばしば、正義という言葉が疑問に思えたり、おかしく思えるのは、途中までは愛情溢れる善人だったのに、どこかで、怒りや、恐れに負けてしまい、突然、悪党や狂気の人や国家に成り下がってしまうからでしょう。正義とは愛の人や国家になる挑戦をしている者(達)への言葉ではないだろうか。
また、正義を語っている者達がいるとして、実は正義の仮面を付けて共存している者でも同じ正義レベルであるという事である。寧ろ恐怖をまき散らすような騒ぎをおこさず正義の仮面をかぶりながらでも共存しているとしたら、それは、大変エライと褒めて言えるのである。
・自分がされて嫌なことは他人にしないって事ですかね。逆に言えば、自分がされて嬉しいことは人にしようって事ですかね。これを、動物等ありとあらゆるところまで発展させようというのが、霊的であり、宇宙的なのかも。