ひふみ神示 第17巻 地震の巻 / (二曰んのキ) 


  第四帖 (三八一)
 同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、然らざるものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる。同類は相寄り、相集まり、睦び 栄ゆ。生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体であるが、また死後の世界に通ずる。同気同一線上にいる霊人たちは、且って一度も会せず語らざるも、 百年の友であり、兄弟姉妹である如くに、お互いに、その総てを知ることができる。生前の世界に於ける、かかる霊人が肉体人として生れ出でた場合の多くは、 同一の思想系をもつ。但し、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じてくる。また、生前の生活と同様のことを繰り返 すこともある。霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一つとしてない。そこに、存在の意義があ り、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくるのである。生前の霊人の場合は、自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約 され、単的に現われていて、いささかも反する顔面をもつことは許されない。一時的に満たすことはできても、長くは続かない。この情態の原理は、地上人に も、反影している。生前の世界は、以上の如くであるから、同一状態にある霊人が多ければ、その団体の大きく、少なければ、その集団は小さい。数百万霊人の 集団もあれば、数百、数十名で一つの社会をつくる団体もある。各々の団体の中には、また特に相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集団が自らに してでき上がっている。そしてまた、各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に 座をとりかこみ運営されている。若しそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない。而して、それは一定の戒律によって定めら れたものではなく、惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっているのである。またこれら集団と集団との交流は、地上人の如く自由ではない。総ては  の  を中心として  の姿を形成しているのである。  と  とを、生前の世界に於て分離することは極めて至難ではあるが、或る段階に進むときは一時的に分離が生ずる。しかし、この場合も  は  であり  は  である。これが地上世界の行為に移りたる場合は、

不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度が更に加わって、真偽混乱に及ぶ
ものである。

悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるが如く写し出される
のである。

生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、御用の悪として自ら許されている。許されているから存在し行為し現われているのである。この場合の悪は、悪にあらずして  の  であることを知らねばならない。即ち、道を乱すが故である。地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写 される。愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する。その根底力をなすは歓喜である。故に、歓喜なき所に真実の愛はない。歓喜の愛は、これを愛の善と云 う、歓喜なき愛を、愛の悪と云うのである。その歓喜の中に、また歓喜があり、真があり、真の真と顕われ、  となり、  と集約され、その集約の  の中に  を生じ、更に尚  と弥栄ゆる。生前の世界、死後の世界を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである。大神は 常に流れ行きて、一定不変ではない。千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜である。完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸である。されど、地上人に於て は、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。故に同時に、善と悪との両面に通じ、 両面に生活することとなるのである。其処に、地上人としての尊きかなしさが生じてくる。霊人に於ては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。 一時的には仮面をかむり得るが、それは長くつづかず、自分自身 耐え得ぬこととなる。地上人と雖(いえど)も、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。悪と偽に、同時にはいることは、一応の必要悪、必要偽として許され る。何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからである。

悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となる

らである。霊 物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである。霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止ま ぬ。生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである。霊人も子を生むが、その子は歓喜である。歓喜を生むのである。

  第五帖 (三八二)
 全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神その ものの現われの一部である。過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、 霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している。故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている。部分部分が雑多なるが故に、全 体は存在し、力し、弥栄し、変化する。故に、歓喜が生ずる。

本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影
である。故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ない。悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。

悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じている。
善は総てが神から流れ来たり、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている。故に、悪には本来の力はなく、影にすぎない。善は無限の力をうけるが故に、益々弥栄する

生 前の世界は有なるが故に善であり、死後の世界も同様である。生前の自分の行為が地上人たる自分に結果して来ている。生前の行為が生後審判され、酬いられて いるのではあるが、それは、悪因縁的には現われない。そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある。悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後 の地上人に現われるのではない。何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われなるが故にである。地上人的に制限されたる感覚の範囲に於て は、悪と感覚し、偽と感覚し得る結果を来す場合もあるが、それは何れもが弥栄である。これを死後の生活にうつされた場合もまた同様であって、そこには地獄 的なものはあり得ない。川上で濁しても川下では澄んでいるのと同様である。要するに、生前には、地獄がなく、生後にも、死後にもまた地獄はないのである。 この一貫して弥栄し、大歓喜より大々歓喜に、更に超大歓喜に向って弥栄しつつ永遠に生命する真相を知らねばならぬ。しかし、

天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因
である。本来なきものをつくり出し、一を二にわける。だが、分けることによって力を生み弥栄する。地獄なきところに天国はない。天国を思念する処に地獄を生ずるのである。善を思念するが故に、悪を生み出すのである。

一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。即ち、一は二にして、二は三である。生前であり、生後であり、死後であり、尚それらの総ては  である。  は  であり  であり、  と集約される。故に、これらの総ては無にして有である。人の生後、即ち地上人の生活は、生前の生活の延長であり、また死後の生活に、そのままにして進み行く、立体となり、立々体と進み、弥栄する処につきざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄浄化する。

浄化、弥栄することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となる。
故に、神の中に神として総てが弥栄するのである。悉 くの行為が批判され、賞罰されねばならぬと考える地上人的思念は、以上述べた神の意志、行為、弥栄と離れたものである。歓喜に審判なく、神に戒律はない。 戒律は弥栄進展を停止断絶し、審判は歓喜浄化を裁く。このことは神自らを切断することである。裁きはあり得ず戒律はつくり得ず、すべては これ湧き出づる歓喜のみの世界なることを知らねばならない。

行為は結果である。思念は原因である。原因は結果となり、結果は只、結果のみとして終らず、新しい原因を生む。生前の霊人は、生後の地上人を生む。地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は、更に原因となりて生前の霊人を生む。  は  となりて廻り、極まるところなくして弥栄える。以上述べた処によって、これら霊人、地上人、地上人の本 体が歓喜と知られるであろう。されば、常に歓喜に向ってのみ進むのである。これは只、霊人や地上人のみではない。あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森 羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至るのみ。故に地上世界の悉くは生前世界にあり、且つ死後の世界に存在し、これらの三は極め て密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一つである。生前の呼吸はそのまま生後、死後に通ずる。地上に於ける総ては、そのままにして生前なるが故に、生 前の世界にも、家あり、土地あり、山あり、川あり、親あり、子あり、夫婦あり、兄弟姉妹あり、友人あり、また衣類あり、食物あり、地上そのままの生活があ る

地上人、地上生活を中心とすれば、生前、死後は映像の如く感覚されるものである。しかし、生前よりすれば、地上生活、物質生活は、その映像に過ぎない ことを知らねばならぬ。時、所、位による美醜、善悪、また過去、現在、未来、時間、空間の悉くを知らんとすれば、以上述べたる三界の真実を知らねばならぬ。


  第十五帖 (三九二)
 霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。故に、其処には霊人の住宅があり、霊人はまた衣類をもつ。住 宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する。霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置も あり、玄関もあり、庭園もある、と云ったふうに、現実世界と殆ど変りがない。と云うことは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様であると云う ことを意味する。また、内分を同じくする霊人たちは、相集まり、住宅は互に並び建てられており、地上に於ける都会や村落とよく似ている。その中心点には多 くの場合、神殿や役所や学校等あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいる。そして、これらの総てが霊界に存在するが故に、地上世界に、それの写しがあるの である。霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、地上人の世界である。地上人は、物質を中心として感覚し、且つ考えるから、真相が中々に つかめない。これら総ての建物は、神の歓喜を生命として建てられたものであって、霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る。また天人の衣類も、その 各々がもつ内分に正比例している。高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着することとなる。彼等の衣類は、彼らの理智に対応してい るのである。理智に対応すると云うことは、真理に対応すると云うことになる。但し、

最も中心に近く、太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していないの である。この境地に到れば、総てが歓喜であり、他は自己であり、自己は他であるが故である。

しかし、他よりこれを見る時は、見る霊人の心の高低によって、 千変万化の衣類を着せる如く見ゆるのである。また、衣類は総て霊人の状態の変化によって変化して行くものである。霊人はまた、いろいろな食物を食してい る。云う迄もなく霊人の食物であるが、これまたその霊人の状態によって千変万化するが、要するに歓喜を食べているのである。食べられる霊食そのものも、食 べる霊人も何れも、食べると云うことによって歓喜しているのである。地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻か らも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである。そして、食べると云うことは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、 一つの歓喜となることである。霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れるこ ととなるのである。これらの行為は、本質的には、地上人と相通ずる食物であり、食べ方ではあるが、その歓喜の度合および表現には大きな差がある。食物は歓 喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである。以上の如くであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられてい るのか判らない程である。また霊人の食物は、その質において、その霊体のもつ質より遠くはなれたものを好む。現実社会に於ける、山菜、果物、海草等に相当 する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない。何故ならば、性の遠くはなれた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。霊人自身に近い 動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、返って不快となるからである。そして霊人は、これらの食物を歓喜によって調理している。そしてまた与えら れた総ての食物は、悉く食べて一物をも残さないのである。すべての善は  より起り、  にかえるのと同様、総ての悪もまた  より起り  にかえる。故に、神をはなれた善はなく、また神をはなれた悪のみの悪はあり得ないのである。殊に地上人 はこの善悪の平衡の中にあるが故に、地上人たり得るのであって、悪をとり去るならば、地上人としての生命はなく、また善は無くなるのである。この悪を因縁 により、また囚われたる感情が生み出す悪だ、と思ってはならない。この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄するのである。

悪のみの世界はなく、ま た善のみの世界はあり得ない。所謂、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである。地上人は、霊人との和合によって神と通ずる。地上人の肉体 は悪的な事物に属し、その心は善的霊物に属する。その平衡するところに力を生じ、生命する。

しかし、地上人と、霊人と一体化したる場合は、神より直接に地 上人にすべてが通じ、すべてのものの が与えられると見えるものである。これを、直接内流と称し、この神よりの流入するものが、意志からすると きは理解力となり、真理となる。また、愛より入るときは善となり、信仰力となって現われる。そして、神と通ずる一大歓喜として永遠に生命する。故に、永遠 する生命は愛と離れ、真と離れ、また信仰とはなれてはあり得ないのである。神そのものも神の法則、秩序に逆らうことは出来ない。法則とは歓喜の法則であ る。神は歓喜によって地上人を弥栄せんとしている。これは、地上人として生れ出ずる生前から、また、死後に至るも止まざるものである。神は、左手にて  の動きをなし、右手にて  の動きを為す。そこに、地上人としては割り切れない程の、神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。

地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、また、悪、偽に導かれる。この場合、その平衡を破るようなことになってはならない。その平衡が、神の御旨である。平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と云う
のである。

左手は右手によりて生き動き、栄える。左手なき右手はなく、右手なき左手はない。善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。神は善、真、悪、偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。新しき神は、常に神の中に孕み、神の中に生れ、神の中に育てられつつある。始めなき始めより、終りなき終りに到る大歓喜の栄ゆる姿がそれである。

  第十九帖 (三九六)
 天国の政治は、歓喜の政治である。故に、戒律はない。戒律の存在する処は、地獄的段階の低い陰の世界であることを知らねばならない。天国の政治は、愛の 政治である。政治する政治ではない。より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされる。故に、与える政治として現われる。天国は、限りなき団体によっ て形成されている。そして、その政治は、各々の団体に於ける最中心、最内奥の歓喜によりなされるのである。統治するものは一人であるが、二人であり、三人 として現われる。三人が元となり、その中心の一人は、  によって現わされ、他の二人は、  によって現わされる。  は、左右上下 二つの動きの  を為すところの立体  からなっている。統治者の心奥の  は、更に高度にして、更に内奥に位する  の中の  によって統一され、統治され、立体  をなしている。

天国では、この  を、スの神と敬称し、歓喜の根元をなしている。スの神は、アの神と現われ給い、オとウとひらき給い、続いて、エとイと動き現われ給うのである。これが総体の統治神である。三神であり、二神である。ア、オ、ウは愛であり、エ、イは真である。これら天国の組織は、人体の組織と対応し、天国の一切の事象と運行とは、人体のそれに対応している。オ、ウなる愛は曲線であり、心臓である。エ、イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈うち、呼吸しているのである。

これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。よりよく奉仕するのみである。奉仕するとは、如何にしてよりよく融和し、善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし、これらの総てを神の力として生かし、更に高度なる大歓喜に到らんかと努力することである。また統治者自身は、自分達を他の者より大なる者とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜を先ずよろこび、己はその中にとけ入る。故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである。指令することは、戒律をつくることであり、戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている。

天 国に於ける政治の基本は、以上の如くであるが、更に各家庭に於ては、同一の形体をもつ政治が行なわれている。一家には、一家の中心たる主人、即ち統治者が おり、前記の如き原則を体している。またその家族たちは、主人の働きを助け、主人の意を意として働く。その働くことは、彼等にとって最大の歓喜であり、弥 栄である。即ち、歓喜の政治であり、経済であり、生活であり、信仰である。天国に於ける天人、霊人たちは、常にその中心歓喜たる統治者を神として礼拝す る。歓喜を礼拝することは、歓喜の流入を受け、より高き歓喜に進んで行くことである。けれども、天国における礼拝は、地上人のそれの如き礼拝ではない。礼 拝生活である。総てと拝み合い、且つ歓喜し合うことである。与えられたる仕事を礼拝し、仕事に仕えまつる奉仕こそ、天国の礼拝の基本である。故に、各々の 天人、天使の立場によって、礼拝の形式、表現は相違している。しかし、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝であると云う点は一致している。地上人的礼拝は、 形式の世界たる地上に於ては、一つのいき方であるが、天国に於ける礼拝は、千変万化で、無限と永遠に対するものである。無限と永遠は、常に弥栄えるが故に 生ずるものであり、その弥栄が神の用である。森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄を見て、この無限と永遠を知り、あらゆる形において変化繁殖するを見 て、無限と、永遠が神の用なることを知らねばならぬ。天国の政治は、光の政治である。天国にも地上の如く太陽があり、その太陽より、光と、熱とを発してい るが、天国の太陽は、一つではなく二つとして現われている。一は月球の如き現われ方である。一は火の現われ、火の政治であり、一は水の現われ、水の政治で ある。

愛を中心とする天人は、常に神を太陽として仰ぎ、智を中心とする天使は、常に神を月として仰ぐ。月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、各々その天人、天使の情 動の如何によるのであって、神は常に光と熱として接し給うのである。またそれは、大いなる歓喜として現われ給う


光と熱とは、太陽そのものではない。太陽 は、火と現われ、月は、水と現われるが、その内奥はいずれも大歓喜である。光と熱とは、そこより出ずる一つの現われに過ぎないことを知らねばならぬ。この ことをよく理解するが故に、天国の政治は、常に光の中にあり、また熱の中に育ち栄え、歓喜するのである。

天国の太陽よりは、真と愛とが常に流れ出ているが、その真と、愛とは、太陽の中にあるのではなく、現われ出たものが真と見え、愛と感じられるのみである。太陽の内奥は大歓喜が存在する。故に
高度の天人の場合は、愛も真もなく、遥かにそれらを超越した歓喜の  が感じられるのみである。この歓喜の  が、真、善、美、愛となって、多くの天人、天使たちには感じられるのである。

歓喜は、そのうけ入れる天人、天使、霊人、地上人たちのもつ内質の如何によって、千変万化し、また歓喜によって統一されるのであるということを知らねばならぬ。

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