長野県上松町の上松発電所の考察です
1. 上松発電所建設の経緯
寝覚発電所は上松町街対岸にあります。地図上北側と西側から導水しています。次の下流桃山発電所の間の木曽川には、約23メートルの未利用落差が残っていました。
寝覚発電所から上松発電所への導水路(右側の青い点線)
そこでアジア太平洋戦争開戦後、日本発送電株式会社は、上松発電所を、寝覚発電所と桃山発電所との間に作ることにしました。
1943年8月、逓信大臣より日本発送電株式会社に対し上松発電所建設命令が発せられました。
着工は1943年10月で、1944年12月末までの竣工を目指し、突貫工事が進められました。この時強制徴用の朝鮮人,中国人が働かされました。1945年3月、セメントなどの入荷が皆無となり作業中止となりました。
木曽仏教会は1967年5月に日中友好観音さまを上松町臨川寺につくられ、その当時なくられた中国人を追悼しています。木塔婆の灵位(língwèi)は、中国語で「人々の魂」の意味です。
2. 上松発電所
上松発電所殉職者慰霊碑
上松発電所の 「殉職者慰霊碑」です。ドウダンツツジの紅葉がきれいでした。裏側に「昭和貮拾参年八月建立」とあり、14名のお名前が刻んで有りました。明らかに中国人とお分かりするお名前が2名。朝鮮半島から連れてこられた人々は1939年の創氏改名のせいで特定できません。4名はおられると思います。
この後、上松町公民館に行き、図書館で「上松町誌;第三巻:歴史編 / 上松町誌編纂委員会 編 / 2006年2月 / 上松町」を見せていただきました。
これによると「木曽では発電所工事がその(この前の文章にある強制連行のこと=引用者注)の一つで、町内の上松発電所に朝鮮人労働者が送られた。飯場は池島(いけじま, 上松町北辺=引用者注)にあったという。上松発電所にある慰霊碑には殉職者の名の中に朝鮮人がのっている」(567頁)という通りに載っていました。
ただし、「上松町誌 ; 3 :歴史編」571頁の表4-63 では、大成建設株式会社上松作業所死亡者23名と記されています。お名前から分かりますことは、作業中の人のみ殉職者とされております。他の21名の方々は病死とされています。12名の方々は消化器系疾患, 8名の方々は呼吸器系疾患, 1名の方は火傷でした。「小麦粉40%, フスマ30%, コヌカ30%の割合の縦3㎝, 横7㎝, 厚さ3㎝の包子(中身のない蒸しパン)1日3個が標準でした」(同上569頁)。慢性的な栄養失調と隧道内の粉塵など、それほど苦しい労働だったのです。
写真は小野が谷(や)にある上松発電所全景です。吊り橋の上から撮りました。手前の木曽川に水が流れていないのが分かるでしょう! 上松発電所ができるまで、中山道の名所「寝覚の床」は、今のような流れではなかったのです!
上松町にある寝覚発電所から 2,507.0mで1m下がる勾配で隧道を掘り地中で21.1mの落差を作り発電しています。
関西電力株式会社に問い合わせましたが、返事は「公開していない。作ったのは日本発送電気株式会社なので、詳細不明。」ということでした。
水力発電所データベース
http://www.jepoc.or.jp/hydro/index.php?_w=usData&_x=areashow
によると、有効落差21.1m、1947年2月15日完成となっています。
現地で調べた結果、上松発電所着工は1943年10月で、1944年12月末までの竣工を目指し、木曽川沿いに寝覚発電所から2,507.0mで1m下がる勾配で横穴2か所を用い、もう一つの横穴は発電所設置場所から22.5m掘り下げることに用いられました(同上573頁)。この時、強制徴用の中国人と朝鮮人を工事に働かせました。1945年3月、隧道材料の鉄材, セメントなどの入荷が皆無となり作業中止となっています。敗戦後、いつから再着工されたか、今回は分かりませんでした。(同上573頁)
この「水の流れていない木曽川」の水は、どこに行ったのでしょうか?
上松発電所から桃山発電所への取水口(左下)
1923年11月の稼働した下流の桃山発電所へ、写真の下方にある導水路入口から、すべての水を4305.5m導水し、79.55mの有効落差を作っています。もともとこの堰が桃山発電所の取水口だったと思われます。
3.寝覚発電所に行ってきました。
寝覚発電所は、関西電力株式会社のこの付近の発電所の中心のようでした。構内も大きく管理事務所も大きいものでした。
写真のように、木曽川への排水路は閉じられています。下の写真の通り導水路は2本です。
取水は木曽川取水堰、王滝川の木曽ダム、木曽ヒノキで有名な赤沢自然休養林から流れ出る小川取水堰からでした。
上流側から まず下の地図が木曽川取水堰です。合流点までの距離は2.4㎞あります。
次いで王滝川です。
元々の取水堰は、1967年11月に竣工した木曽ダムのため埋没し、木曽ダムから取水するようになりました。木曽ダムは、関西電力株式会社になってから作られた木曽発電所への導水路を持っています。
地図の「合流点」と記した所が、木曽発電所と寝覚発電所の共用取水口です。コンクリート容量を節約するため2階建て構造となっています。木曽川からの水はここで合流します。上部が寝覚発電所用取水口です。下部は、木曽発電所への取水口です。
次の地図内の「合流点から」というのは、この位置を示します。
第三の小川取水堰は、上の地図の左下の位置にあります。小川堰からの水路は1.80㎞の長さがあり、下流側で水流を速める加圧式隧道です。木曽発電所が出来てからは小川上の水路橋北側で木曽発電所導水路と合流しています。寝覚発電所は有効落差64.29mを得ています。
さて、閉じられた寝覚発電所からの水は、激しい勢いで写真の左上の排水口を通り、右へ延びる木曽川ヘの排水口へは行かず、左下の上松発電所の導水路に入ります。
寝覚発電所に慰霊碑があると言われていましたが、そうではありません。現地で全文読みました。建設した大同電力株式会社の顕彰碑です。1938年8月通水, 9月営業とあり、「而カモ此ノ間殉難者三十有八人負傷者三千餘人ヲ出シタルハ真ニ傷心」とあるだけです。大同電力株式会社は、1919年に設立された大阪送電株式会社が、1921年に木曽電気興業,日本水力の2社を合併してできました。まだ1939年3月18日の日本発送電結成株式会社結成前のことです。
日本発送電株式会社は、1946年12月7日財閥解体第2次指定を受け、解体されます。その時、関西電力株式会社に移行されたのは、木曽川水系の上流部がこの大同電力株式会社による電源開発であったからです。
4.上松発電所の朝鮮人飯場跡,中国人飯場跡
寝覚発電所の送電線(写真一番左)の北側(写真右側)にも鉄塔が立っています。対岸から写真を撮りました。
ここが「シナ(使用禁止,差別用語)の平」という中国人の飯場跡です。
導水路の北に階段がありました。鉄塔も階段も、1938年には建設されたと思われます。
送電線下をくぐる時、「送電線の25m以内に近づかないで下さい。危険です。」という関西電力株式会社の注意書きが有りました。ですから、鉄塔群の北(上写真のさらに右)にあった飯場へ行く時、中国人は強い電磁波の磁界内を歩行した訳です。
朝鮮人飯場跡は、地図のように等高線がほぼ水平の地域「池島」がありました。実景の写真があるのですが、住宅が建っており私的権利を逸するので、地図だけで勘弁してください。黄色い道路はかつての木曽森林鉄道王滝線。鬼淵橋西橋で南下する道路はかつての木曽森林鉄道小川線です。朝鮮人の人たちは、おそらく寝覚発電所まで木曽森林鉄道小川線に乗せられたと思われます。
一般に日本人,朝鮮人,中国人は飯場を別々にされていました。
5. 上松町玉林院さん
中国人の位牌は、写真下中の山門外にある写真右の白い帽子を被った観音さまに祀ってあると住職の奥さまに言われました。
臨済宗妙心寺派のご本尊は阿弥陀仏さまです。塀の中の日本人の位牌はこの横顔の阿弥陀仏さまの下に眠っておられます。
観世音(観音)菩薩さまは、誰もの声を聴き,助ける仏さまです。中国では、釈迦菩薩, 阿弥陀菩薩, 観世音菩薩が祀られます。中国人の人たちの追悼で、手を合わせるしかありませんでした。
今一つ外門がありますが、山門の門外というのは残念でした。
6.朝鮮人の位牌はどこに行ったのか?
中国人徴用工の賠償は日本の最高裁で確定し、すでに支払われています。しかし、朝鮮人徴用工への個人慰謝料は支払われていません。理由は、植民地だったからという論理です。
考えてごらんなさい。脅しをかけてよその土地を無理やり取り、その上に工場を建てることはあり得ない行為です。また小作民を米作に専業させ、現金収入のない貧困に陥った小作農を他の土地で炭鉱労働者, 発電所などの土木建築をさせることもあり得ない行為です。
1905年11月17日に日本が「締結」したという、第2次日韓協約(日韓保護条約)は、日本語文に題字がありません。コジョン(고종, 高宗)は署名を拒否しました。韓国ではウルサ ジョヤク(을사조약, 乙巳条約)といいますが、無効でしょう。
ですから、韓国では「日本強占(일본 강점, イルボン ガンチョム)」と言うのです。
朝鮮保護条約(第2次日韓協約)の実態として、私は、拙著「アジアから見た日本の侵略:明治維新から東南アジア占領まで / 高堂 眞一 著 / 2020年2月 / 京都 : 宮帯出版社 / 43頁」で強引に調印させる様子を述べました。
1905年のことです。
4月10日、明治天皇が「韓国保護権確立の件」を裁可している。(日露戦争交戦中)
10月27日、ポーツマス条約締結後、閣議は韓国に対する保護権確立の実行を決定。
11月 1日、明治天皇は伊藤博文を特派大使とする。
11月15日、伊藤は、保護条約承認を強要した。コジョンは拒否、伊藤が恫喝した。
11月16日、閣議に臨んだ多くの大臣も締結に反対。
11月17日、伊藤が大臣一人ひとりの賛否を尋問し、言葉尻をとらえて賛成とみなした。
11月18日、午前1時半ごろ「調印」となった。
「日韓併合 / (岩波新書) / 海野福寿 著 / 1995年 / 岩波書店」は、その様子を赤裸々に描いています。11月17日「閣議形式の会議がひらかれた。外国の使臣である伊藤博文, 林権助が武官とともにこれに出席すること自体、不法きわまりない」(165頁)としています。もっとも海野はこの協約を有効とします。
「1990年代初頭から高まった植民地(支配)責任を問う動きに対して、四半世紀を経た現在、日本でも世界でも、それらを封じ込める動きが激しさを増している」(日本植民地研究の論点 / 日本植民地研究会 編 / 2018年7月 / 岩波書店 / 254頁 : 植民地責任論 / (コラム ; 13) / 浅田進史 著 )。
その中でも貴重な成果を得ています。《「植民地責任」論 : 脱植民地化の比較史 / 永原陽子 編/ 2009年3月 / 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所》は、その典型です。第4章(132~160頁)で、吉澤文寿は、なぜ朝鮮省,台湾省の植民地責任があいまいにされ、現在に至っているのか、詳しく分析しています。
1. ポツダム宣言受諾/無条件降伏により、「他律的に植民地を手放した」。
2. 「『植民地責任』が全く追及されなかった」。
3. 朝鮮/韓国を含み、「日本の植民地責任を追及する国際的な政治力が不足していた」(132頁、以下引用は「植民地責任」論の頁数)。
敗戦後に行われた東京裁判およびサンフランシスコ講和会議では、第二次世界大戦末期から始まった冷戦により「植民地責任がまったく追及されなかった」(135頁)のです。冷戦に参加した「日本でも引揚げを果たせなかった約60万人の朝鮮人に対し、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官)と日本政府が旧植民地出身者の参政権,教育権などの基本的人権を奪った。そして、独立を機に、日本政府は旧植民地出身者の日本国籍を剥奪して『外国人』とすることで、日本国憲法などによって日本国民に保障されている諸権利を奪った」(135頁)のです。
さらに1952年の日華条約では「蔣介石率いる台湾の国民政府は冷戦論理を優先して対日賠償を放棄し」ました。他方韓国政府は、「植民地支配の『清算』を日本政府に強く要求した。これに対し日本政府は(賃銀などの)未払い金や郵便貯金などの『債務』のみを支払い対象として認め、戦時において軍人・軍属,労働者などとして動員したことによる肉体的・精神的苦痛に対する補償を一切認めなかった。日本軍『慰安婦』については議論すらなかった」(137頁、太字は引用者)のです。1965年の日韓条約批准以来、「日本政府は一度として韓国に提供した経済協力について、『賠償』あるいは『補償』であると説明したことがない。つまり、韓国政府が『請求権資金』と称した日本からの経済協力が植民地責任とは無縁のものであることは明白」(138頁)です。
90年代に入り、従軍慰安所(軍 性奴隷制)については、1993年8月河野洋平内閣官房長官談話が発表された(Web addressは全文)。https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E9%96%A2%E4%BF%82%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E7%B5%90%E6%9E%9C%E7%99%BA%E8%A1%A8%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B2%B3%E9%87%8E%E5%86%85%E9%96%A3%E5%AE%98%E6%88%BF%E9%95%B7%E5%AE%98%E8%AB%87%E8%A9%B1
また侵略そのものについては、1995年8月村山富市首相談話が発表された(Web addressは全文)。
しかし、「事実認定を踏まえた具体的な責任履行についてははなはだ不十分と言わざるをえない」(145頁)のです。
1939年朝鮮総督府は、制令19で「創氏」, 20号で「改名」させ、内地(日本国内のこと)に、送り込まれた韓国人は、1939年以降の「自由募集」, 1942年以降の「官斡旋」, 1944年以降の「強制徴用」であったとしていますが、官憲の関わりは明らかです。朝鮮人強制徴用があった現場で、氏名が日本式名に変えられているから、日本で労働者名簿が発見されても、韓国人か否かを発見するのは難しいのです。
また昨今の「歴史修正主義」、人種差別というべき「嫌韓流」の流れの只中にいて、日本政府は責任を放棄しているように思えます。2015年12月28日「慰安婦問題日韓合意(2015년 한·일 일본군 위안부 협상 타결」は、当事者を席に着かせませんでした。また2018年 10月30日の韓国大法院判決(한국대법원 판결)は、個人の「動員したことによる肉体的・精神的苦痛に対する補償を一切認めなかった」ことへの、日本政府に反省を求めたものでした。しかし、日本政府は態度を変えようとしません。
植民地責任とは何か。
中国を含む日本が侵略した地域住民に甚大な被害と損害を与えたことに対する責任。
植民地犯罪とは何か。
それは、支配の過程で行われた住民に対する暴力, 虐殺, 侮辱行為, 強制労働行為, 奴隷化, 政治的差別, 経済的収奪, 文化の蔑視と破壊。
(第1章 戦争責任と植民地責任もしくは戦争犯罪と植民地犯罪 / 清水正義 / 54頁)
















