こんにちは

目標をつかむ男こと青木眞一です。

 皆様、お元気ですか。

 

 8月ですね。

 本当暑いです。

 8月11日が「山の日」として祝日になる

ことは、2014年に決まりました。

そして 実際に、祝日となるのが今年

2016年からとなります。

 漢数字の「八」の文字が山の形に見える

ことから「8」、 木が立ち並ぶイメージから

「11」を使ったそうです。

 

元々は、6月上旬、海の日の翌日と

お盆前日曜日を祝日とする案の中から

盆休みと連続させやすい利点があると

して、お盆前の8月12日を祝日とする

案が採用されていたようです。

 

しかし、8月12日は1985年に起こった

日航機墜落事故と同じ日であることから

群馬県選出の小渕優子議員らが 「日航

機墜落事故が起きた日をお祝いするのは

違和感を覚える」と懸念を示し群馬県知

事が日付見直しを求め、最終的に8月

11日を山の日とすることにしたようです。

 

 平和の祭典リオ五輪の開会式当日の

5日、リオデジャネイロ市内各地で、開催に

抗議するデモがあり、警官隊とデモの

参加者が衝突し、けが人も出ているとの

ことで大変な幕開けと成っています。

経済のことにも触れたいですが

沢山書けませんので次回にさせて

いただきます。

 

 何かブログが上手く書き上げること

ができないので何故かなと思い、書く

ことを止めました。

 すると、私の大好きな歌謡曲を流して

いないでは無いですか。()

 

 人は、何かをする時にいつもと違うと

戸惑います。

 それは、脳が感じているのです。

つまり、脳には環境も行いも常に変化

する事を嫌がることが解ります。

 

 何を言いたいかと言う事なのですが

人は、意志でこう変えるとの強い意思

がないと、普段と同じ生活に戻ってしまい

ます。

 

 意志とは、人生の舵であるということ

です。

 恐らく、此の意志を持つのは人だけだと

思います。

 何でこの様な事を言うのかと言うと

もう、正しい事は誰もが理解しています。

 

 ただ、この意志の舵が上手く出来ない

自分が腹立たしいのです。

 成功者は、この意志の舵取りが上手く

出来ている人なのでしょう。

 自分の中には、何でも出来る力があると

でも、何もさせない怠け者の自分がいます。

 どちらも、自分です。

 よく悟りといいます。

 この悟りは、何も凄い話でなく、ありのまま

の姿を、ありのまま捉える事だといいます。

 

 例えば、雨の止まない事はない。

 このことから考えたら、人は、最大のみかた

と最大の敵が自分の中にいて常に争って

います。

 つまり、この争いに意志と言う舵があれば

自分に勝利することができます。

 

 何が言いたいのか、自分以外の人と自分を

比べる事は、まずどの様な事であろうと勝てな

いと言うことでしょう。

 私は、思いますこの自分を自由に操作でき

る強い意志こそ全てを手に入れることができる

唯一の方法ではないかと思っています。

 

 山の日のお話からこの様な、訳の

わからない話になったのでしょうか。()

 

 面白くないお話に成り申訳ありません。

 まじめ、じめじめロクな事ありませんね。

 



 

 本題のお話しを致します。

 

 「無実」とは、事実がないことです。

 罪を犯していないのに、罪がある

とされることで 冤罪 (えんざい)をいい

ます。

 人に対する「誠意がない」という否定的

評価の表現を意味します。

 

  無罪と無実という、よく似た言葉があり

ますね。

 無罪の場合、「罪が無い」というわけ

ですから意味がよく分かりますが、では

なぜ無実という言葉は「実が無い」と書くの

でしょうか。

 無実無罪だとすれば、実罪である

はずですが、一般的に言えば、実というのは

ポジティブなイメージですよね。

現に実(じつ)を辞書で引くと、正直とか

実直とか、誠意の意味だと書いてあります。

 いったい無罪をなぜ、無実と言うので

しょうか。

実の語源は、どちらかと言えば、たわわに

実り家に財産が満ちる状態、ということのよう

です。

一方、誠実と言う意味もありますが、もう一方

で事実の「実」のように出来事の「実態」を

しめす、という意味もあります。

 

  ですから、「無実」とは、罪にひっかけて

解釈すれば、事の実態を示す実態は無い

というような意味になろうか、と判断をします。

 

 そこから、類推すると、やはり、「無実」

ひとつの熟語では、「罪」までは問うていま

せん。

 

  むしろ、罪に足る「事実」が無い、と言い

ます。

つまり、「罪」を構成する前の段階から

自分は「事実」の発生にかかわっていない

と強調したいがために、「無実だ!無実だ!」

と叫ぶのです。

  「無罪だから無実なのではありません」

「無実だから無罪なのです、いや、無実だから

罪を構成しない」。

この順序を間違えると、一層その人が

あやしくなります。

こう言って、裁判所では戦うべきでしょう。

「私は、罪とは無関係です。だって事実が

無いのですから」と。実=罪でも、実罪で

もありません。

罪ではないでしょうか。

 

 「人が裁く」ことからくる「冤罪」は、勿論なく

なる事は無いです。

 一度、犯罪者扱いされた者は、真犯人を見

っけるか、事実を証明する以外に「冤罪」を

晴らす事はできません。

 もし、貴方がこの様な立場になったらどうし

ますか。

 今、灰色ならば、無罪という判断がされて

います。

 実は、この考え方こそが私達をこの「冤罪」

から救ってくれる判断じゃないかなと思って

いるのは、私だけでしょうか。

 

人の噂が真実を作り上げ、事実であるかの

ように誤解されてしまうのです。

恐ろしいことですね。

 

即ち、社会の中で上手く立ち回るには

悲しいかな真実が重要なのですね。

 本当にややこしくて解りにくい説明で

申訳ありません。

 

 真実この言葉に、騙されないようにして

下さいね。()

人は、学ばなければ真実を見抜く

ことができませんね。

 

  あきません、真面目に考えてしまい

まったく面白くありませんね。()

  

次回は、「経済」についてお話しをいたします。

 

 あまり面白くないかもしれませんが

できるだけ、興味を持てるようなブログに

したいと思いますので、お付き合いお願い

いたします。

 

 最後までお読みいただきまして

 ありがとうございました。

 

 青木眞一