こんばんは。

数年にわたる家事放棄、育児放棄の末に不倫をしていた妻を追い出して離婚闘争中のシングルパパです。


IQ、知能指数が20以上離れると会話が成立しないなどと言う本が出てちょっとだけ話題になりましたね。



読んでみたのですけど、割と納得感があるところはあります。IQに一元化するのはやや暴論に感じたりはしますが。


一方で、そんなのは関係ない、それは単に説明が下手なだけだと主張する意見もあります。


私の経験と発達障害に関する知識を踏まえた上での結論から言うと、どちらも極論だなと思いつつも、能力の差異が大きいとスムースにコミュニケーションをとるのは困難を伴うと言うこと自体は事実だと思います。


うちの息子は明確に発達障害で療育手帳持ち、娘はグレーゾーンです。発達障害を色々調べて、勉強して、観察してきたし、面倒も見てきて、接し方や話し方も工夫して試行錯誤してきたし、今も色々と試行錯誤しています。

労力はかかりますし、常に頭の中で易しい言葉に置き換える方法や、子供にわかる譬え話に考えを巡らせる必要があって、言葉に詰まることもよくあります。


そんな中…仕事では、僕は説明が上手い、わかりやすいとよく言われるようになりました。その辺は子供達のおかげなのでしょう。


人間の能力って、学科や運動みたいに明確な点数がでないものが沢山あります。今はコンピテンシーなんてもので非認知スキルなんてものを体系化しようとしたりしていますけど、発達障害を学んで、発達障害の子たちと触れ合っていると、その辺って元々顕著なんですよね。


記号や図形を正しく捉えるとか、模倣して再現することとか、手順を整理するとか、順序立てて考えるとか、全部が脳の構造的に得意不得意があることなわけです。体の作りで、足が速くなりやすいとか、ボールを使うのが上手いとかそういう事と同じように。


そう言った生まれついての体の違いや脳の違いで、有利不利は必ずあります。


例えば、バスケットゴールの高さは3.05m、身長166cmの私は手を伸ばしても90cm飛ばないとダンクはできない。ところが190cmの人にとっては60cmほどジャンプすればできる簡単な事です。生まれついての構造の違いで、私は190cmの人に比べて30cm追加で飛べるようになる努力をしないと実現できないのです。

体内なのでわかりにくくても、脳も生まれながらに差異はあり、人によって習得に必要となる努力・労力は全然違う。


差異の大小はあれど、みんな習得しやすい事も習得しにくいこともポテンシャルが脳や体という生体の差異に依存している。


そんな多種多様な言語化されていない能力において差異がある中で、IQというその中のいくつかを定量的に測る数値だけで会話が通じないと言い切るのはやはり暴論で、少なくともそれだけではないだろうと思えます。


一方で、説明が下手なだけとその意見を一蹴してしまうのはこれはこれでまた暴論で、それを言い切る人は、相手にわからせたつもりになっているだけか、もしくは、知的障害やグレーゾーンの人たちと触れ合ったことがないか、そう言った人たちを「障害」と切り捨てている差別主義者かのいずれかに感じます。


そもそも言語学とか少しでもかじれば言葉なんて曖昧で、大雑把で、背景に依存するコミュニケーションツールで完全にわかりあうことなんてできるはずもないことはわかるはず。


話が通じないのは説明が下手なだけなんて、国際弁護士の人が発言しているサイトがあって絶句しました。法律こそ、言葉の曖昧性とのせめぎ合いの最たるものであるのに。


言葉は元々曖昧なので同じ単語でも相手が同じものを正確に思い起こせるわけではありません。人生の背景と、知識量と、分類能力と、論理的思考力のレベルの掛け合わせで本人の認識になります。話題に対してそれらの能力ががあまりにも乏しいとどんなに例え話をたくさん出しても伝わらないということはいくらでもあります。


高校の時の同級生の生徒会長が「法律は曖昧で隙間があるからこそ美しいんだ」と言っていました。当時の僕はあたまが悪くてわからなかったけど、今はその言葉で彼は本当に頭が良かったんだなぁと思います。


そして、相手にわかるように説明する、話すという際に知識の量や論理的思考力の違いがありすぎると、能力の高い方の人は話すのにものすごく労力が必要になります。話すときだけではなく、必要以上に知識や例え話の引き出しを増やしたり、説明時間も似た人に比べて何倍も時間がかかります。これは子供の発達障害で、そして人にモノを教える仕事をしてきている中で、身をもって経験している一つの事実として。


そう言った労力は、いかにルーティンにしても、チリも積もればでどんどん蓄積していきます。心のストレスとしてや、物理的な体力や時間にじわじわと溜まってしまいます。


ただの友達関係で言えば、恋人同士であれば、人生の折々に訪れる問題や課題、将来について話し合って合意して、一緒に立ち向かうということが必要ないので、コミュニケーションは上っ面で楽しめれば問題にはなりませんが、仕事や結婚となると話が違いますよね。


「家」の文化がなくなった現代、2人で決めていかなければいけない。今のこと、5年後のこと、10年後のこと。


未来をどこまで考えられるかということも能力の一つ、論理的思考を要する能力で、これが1番ばらつきが多いように思います。


これは遠い未来に備えて考えられないことをディスっているわけではなく、見据えている、または見据えられる目線が近い方が話はしやすいし、お互いに労力が少なくて済むので、一緒にいて楽なのは間違い無いと思うのです。


終局的には、論理的思考力と知識量がある程度同水準の方がお互いストレスがたまらない。


そう言った諸々を含めて考えてみて、なんだかんだと言ってもIQって、発達障害を見極めることもできる指標の一つな訳でして、確率的にはIQは近い人とパートナーになった方が労力はお互い少ないんだろうなぁと思いました。


あくまで一つの指標ですけどね。


うちは、汚嫁はグレーゾーン、私はどちらかと言うと高い方なので、日常会話はともかく問題が起こった時や将来の話の話し合いは話し合いになりませんでした。来年どうしたいか、3年先どうしたいか…そのためにどうしておいた方が良いかなど、全く何も考えられない人でした。


将来展望を考えられない人って、目先の楽しさや快楽にハマりがちですよね。不倫する人ってそういうの多い印象ですけど実際どうなんだろう?まぁ、バレたらどうなるかとか想像できない時点で将来を考えられない人が多そうに思えますね。


まぁ…汚嫁がグレーゾーンなのは、息子の障害がわかってから、障害について勉強するまでわからなかったんですけどね。

付き合ってる時に、行く高校がなくて困るほど成績が悪かったとか、いつも家族の愚痴ばっかり言ってた時点で気づくべきでした。若さ=バカさだったのですよね。


それでも、結婚しなければ良かったとは思っていません。子供達が産まれたし、大切ですし。

結果的にサレ夫になりましたが、私が発達障害、グレーゾーンを3人支えていくだけの器がなかったのでしょう。


そういうことも踏まえて、なんだかんだで学歴に差がありすぎるとか、IQが違いすぎるとか、そういう人がパートナーだと、家庭に問題が発生したり、将来設計を一緒に考えたりする時にコンセンサスビルドをするのは近い人同士より労力がかかる可能性は高まるので、注意したり覚悟したりすることは必要ですよねという話です。





singlepapaのmy Pick