この本は、すべての人に見てもらいたいです。
口から食べられなくなったらどうするのか?
胃ろうについて考えてもらいたいです。
今の医療、世の中は、口から食べられなくなったら
胃ろうというものを付けないと、殺人者にされてしまう。
(この本から一部引用)
医療技術の発達により死ぬまでの時間は引き延ばされました。
高齢になるほど増える認知症、いずれ自分の口では食べられなく
なります。
無理に食べようとすると誤嚥(物を飲み込む際誤って気管に
入れること)して肺炎を起こします。
胃に直接栄養剤を入れる胃ろう(胃腔に向かって腹壁に開けられた
孔とそこに設置された管)の手術を勧められます。
どんな思いでおられるのだろう。
鼻から管を入れられて、1日3回宇宙食のような液体を滴下され、
定期的にしもの処理をされて、人によっては何年も生き続けるのです。
この方々に、生きる楽しみがあるのでしょうか。
胃に直接注入される〝宇宙食〝は、ご本人にはどのような味がする
のでしょうか。
その上この方たちは、「今日はお腹がすかないから、もう結構です」と
言えないのです。この人たちは誰のためにこんな難行苦行を強いられ
なければならないのでしょう。
寝ていますから胃の内容が逆流して慢性の誤嚥性肺炎を起こします。
膀胱機能が衰えていますから、たびたび尿路感染を起こして高熱を
出します。
これは治療なのか、何のための栄養補給か。
ご家族にしても、正直に言って始めてしまったものだから、いまさら
後に引けない、一体これでよかったのかとの思いが起こるのでは
ないでしょうか。
認知症の人は「そんなことはして欲しくない。私は寿命なのだから
もう結構です」とは言えません。
家族は医師から言われて断れなくて、胃ろうを付けてホームに
帰ってくる人が増え続けました。
この事態に、十名を割った看護師は夜勤も抱えて手一杯、業務に
責任が持てないと管理者に抗議しました。
施設は一時、胃ろうを付けた場合はホームに戻れないことにしました。
食べられなければ生きていけないはずだった
人間は、本来口から食べたものによってエネルギーを得て生きて
います。
ところが段々歳を取って体が弱ってくると、遂には食べることが
できなくなります。そうして昔は自然に、静かに息を引き取って
いました。人間も他の動物もそれは当然のことでした。
しかし現在、誰かが、一人で静かに死んでいると大変です。
「マンションの自室で『老人の孤独死』」、新聞にでかでかと報道され
ます。福祉国家ではこんなことがあってはならないのです。
なぜこれが大事件になったのでしょう。今は口から食べなくても
生きていく方法があるからです。
食べられないこと=死という前提が崩れました。
これは元来病気の場合の応急処置でした。
しかし、それが老衰の場合にもいろいろな事情や思いで使われ
だしたのです。
体がもう栄養を受け付けなくなった場合にも、家族は、命を延ばすこと
をしないのは悪いことをしているような気がして、これらの処置が
本当に本人のためになるのかどうか判らないままに、医者から言われ
てそれに従っているのです。
三日で百万円
ある日のこと、九十過ぎの認知症で寝たきりの超高齢者が誤嚥性肺炎
にかかったので、入院先の病院を探したのですがどこにも受け入れて
もらえず、やっと救命センターに連絡が付きました。
センターの医師は次のように言いました。「私の方で何をしろと
おっしゃるのですか。ここに運ばれたら、生命維持装置を付けられ
ますよ。三日で百万円かかってしまいます」。誰もが違和感を覚える
医師の発言です。だがもっともな発言でした。
何もしないで患者さんが死んだ場合、今の日本の刑法では
保護責任者遺棄致死罪(刑法二一九条)に当たる恐れがあるのです。
本当の意味では病気ではない、寿命が来た人、神様のお迎えが来た人
なのですが、日本の刑法は、現代の死の現実に、終末期医療の実態に
即したものに整備されていないふしがあります。
十年ほど前に、末期患者の気管内チューブを抜いた川崎の女性医師
や、人工呼吸を取り外した富山の射水市民病院の外科部長などが
話題になりました。
〝治療の差し控え〝として川崎の医師は起訴されました。
これらは病気の場合なので、老衰の終末期の対応とは違いますが、
治療の差し控えということでは同じなので、今病院の多くの医師は
「もう寿命ですから胃ろうを付けるのはやめましょう」とはなかなか
言えないのです。
自然死を知らない医者
多くの医師は、自然死の姿がどのようなものなのか知る機会が
ありません。
今の医学教育では、病気だ、病態はどうだ、どういう対応をするのか、
病気を治すことばかり、頭の中が一杯になるほど教え込まれます。
しかし死については教わりません。死は排除されているのです。
その上医学はどこまでも進歩し、人の死までコントロールできるような
錯覚にとらわれています。
一番楽なのは自然死
入所者が食べられなくなってからの最後の数日間の様子を見ている
と、喉の渇きや空腹を訴える方に出会ったことがありません。
何も体に入ってないのにおしっこが出ます。
自分の体の中を生理整頓しているかのようです。
ある人はこれを氷が溶けて水になっていくのと同じで、体が死に
なじんでいく過程だと言います。
このような状態では体から自然に麻薬様物質であるエンドルフィンが
出ると言われています。だから苦痛がないのだと言います。
私にはその感じがよく判ります。せっかく楽に自然に逝けるものを、
点滴や経管栄養や酸素吸入で無理矢理叱咤激励して頑張らせる。
顔や手足は水膨れです。
我々は医療に依存し過ぎたあまり、自然の摂理を忘れているのでは
ないでしょうか。
我々にとって、家族にとって、何もしないことは心理的負担を伴います。
口から食べられなくなった人に、胃ろうという方法があるのに、それを
付けないことは餓死させることになる、見殺しだと考えます。
栄養補給や水分補給は人間として最低限必要な処置だ、
それを差し控えるのは非人道的だと思ってしまうのです。
しかしよく考えてみて下さい。自然死なのです。
(ここまで)
すごくよくわかります。
あるものを利用しないのは非人道的だと言われてしまう。
これは学校という組織でも同じ。
せっかく学校というものが存在しているのに、それを利用しないのは
おかしい。行かせないのは虐待だと、虐待扱いされる。
本人にとって、それを利用することが本当にいいことなのか?
なんて疑問を持つことをしない。
行かないといけない(利用しないといけない)というのは
要するに、行きたくない人(利用したくない人)がいるから
そういう発言になるわけですよね?
行きたくない(利用したくない)と言っている人がいて、それで困る
人がいるから、それはやらないといけないと強制をするわけですよね。
だからこの胃ろうの問題も、胃ろうを付けてくれないと困る人
(医師や家族)がいるから、こういう問題になっているわけですよね。
だから本人の意思は、まったく聞き入れられていないということです。
学校の問題も同じ。
本人が行った方がいいのかどうかなんて、まったく聞き入れられない。
行ってくれないと困る学校関係者、家族の感情だけで、学校は行くもの
だと強制されているだけなのです。
ドラマ「美丘」で医師が家に来て、美丘が入院することを勧めに来た
けど医師がわざわざ家に来るのかと思ったけど
それは医師が罪に問われてしまうから、それが嫌でわざわざ家に
説得に来たのだと思いました。
そんなに患者のことを思っているのかと思ったけど、そうではなくて
このままだと死んでしまうのに、それをわかっていて入院させない
ことは罪に問われてしまうから、それが嫌で説得に来たのだと。
私は、子供や好きな人(結婚した人)が口から食べられなくなったら
入院とかさせずに、胃ろうも断ります。
食べたい物、飲みたい物を飲食したい時にさせてあげます。
それで家で亡くなったら、それが一番幸せなことだと思います。
それで私が罪に問われるなら、それはしょうがないと思っています。
私自身もそうしてほしいと思います。
こういうことは話し合っておかないと、自分が病気やケガをした時
勝手に判断されて大変なことになると思う。