お母さんが亡くなって今夜で9年。

日付が変わったちょうど今頃、東日本大震災のボランティアに行っていたお母さんからの電話を取り最期の会話をしました。

もう自分が助からない事と動けない事を伝えた後で何度も何度も「ごめんね、ありがとね」と繰り返していたお母さん。

その声を聴きながら、嫌だ、お母さん死なないで、嫌だよ、置いていかないで、と心は叫んでいるのに、もしかしたらこの電話が本当に最期かもしれないという恐怖が胸いっぱいに広がって声にならなかった。

警察に行かなくちゃ、妹に、兄ちゃんに電話して、お母さんを助けに、今すぐ、どうにか、なんとかしなくちゃ、と焦る気持ちとは裏腹に身体が震えて動けない。

段々とお母さんの声が弱々しくなってなんて言ってるか分からなくなってきた頃、泣きじゃくりながらやっと言えた「私の方こそありがとうだよ」の言葉は、ちゃんと聞こえてたかな。

数秒後にドサっという音がして電話の向こうが無音になった途端、金縛りが解けたみたいに着の身着のまま飛び出して近くの交番に駆け込んだ。

警察の方に「携帯の電波で探すので一度電話を切ってもう一度かけて下さい」と言われて、仕方なく電話の向こうに「お母さん、迎えに行くから!助けに行くから1回切るね!絶対行くから!もう1度かけるから待っててね!」と叫んで電話を切ってかけ直したけど、お母さんはもう出なかった。

結局、電波だけで詳しい場所は分からず朝になっても見つけられなかった。

翌日お母さんを探しに行こうと準備をしていた時に「お母さんの遺体を見つけました」とかかってきた電話は、まるで死刑宣告のようで、私の心も死んでしまったような気がした。
後にも先にもあんなに怖かった事はない。

兄ちゃんと一緒に迎えに行ったお母さんは警察署で棺に入って綺麗な顔で眠ってた。

顔を見るまで信じられなかったけど、顔を見たらやっぱりお母さんで、兄ちゃんにしがみついて「どうしよう兄ちゃん、お母さんや…本当にお母さんや、兄ちゃんっ、どうしよう…」と泣いて泣いて、立ち上がる事も出来ず床に座りこんで泣く私の背中を女性警察官の方がずっと撫でてくれていた。

霊柩車に同乗して10時間かけて北九州に帰った道のりは疲れているはずなのに一睡も出来なかった。

斎場に着いて親戚がお母さんの遺体に話しかけ泣いている間も、部屋の隅で棺に近づかず泣きもせずジッと黙っていた妹は「お母さんと2人にして欲しい」と小さな声でお願いしてきて、全員外に出てしばらくすると、悲鳴のような泣き声が聞こえてきた。

親戚のおばさんが心配して見に行こうとしたのを兄ちゃんが止めて、泣き声が小さくなるのを全員廊下で黙って待って、しばらくして中に入ると棺の窓を開けてお母さんの顔に抱きつくようにして泣いていた。

葬式の最後で棺の蓋を閉めないでくれと泣き喚いてお母さんにしがみついていた私は親戚に引き離され、気丈に喪主を務めた兄ちゃんは火葬場でボタンを押した後子供みたいに泣いた。

あれから9年。

今でも何度も何度も思い出す。

電話の向こうでお母さんの命が消える瞬間を何度も何度も何度も何度も繰り返し、どうやってもこの日から逃げられない。

私が辛い時いつだって傍にいてくれたお母さんを1人で死なせてしまった。

もし戻れたら助けてあげられたかもしれない、もし戻れたらもっと親孝行して、最後に言った短い言葉なんかじゃなくもっとたくさんの大好きを伝えるのに…

そう願うけど、何年経ってもお母さんは生き返らないし、私は後悔したままだ。

こんな事ブログに書いても仕方ないって分かってるけど独りで抱えてもいられず、涙と一緒にポロポロ溢れてくる気持ちを書き殴っています。

お母さんごめんね。

もっと良い子でいてあげれんくて。

約束どおり歌っとるけど、まだまだ心配かけてばっかりやね。

疲れたな、しんどいなって思う時もあるけど…

でも歌ってて良かったなって思う事もたくさんあるよ。

早く会いたいけど、もう少しこっちで頑張ってお土産話いっぱい持ってくね。

その時はいっぱいいっぱい話そうね。

あの時言えんやった事もいっぱいいっぱい聞いてね。

お母さんごめんね。

でも本当に本当にありがとね。

歌っててねって、お母さんあんたの歌が好きやけねって、言葉を残してくれてありがとう。

わたし頑張るけ。

今日くらいは夢に出てきてね。

おやすみ。

お母さん大好き。

会いたいよ。