はじめまして。
敵に対して、「食わせ、飲ませる」といった親切とも取れる行為の動機が、「彼の頭に燃え盛る炭火を積むことになると聖書にあるから」ならば、神はその行為を、「敵への祝福」「敵への愛」とするでしょうか?
表面的には親切ですが、「祝福」や「愛」といえるんでしょうか?
「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、渇くなら彼に飲ませなさい。」の後に続く「そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」という言葉は、非常にひっかけ問題とも言える気がします。
「食わせ、飲ませる」行動の動機、肝心な動機が愛とは大いに矛盾しているからです。
敵を愛するなら、神からの彼らの怒り(頭に燃え盛る炭火を積むこと)を回避してやりたくもなります。
まして自分が敵に対してする親切が、彼らの頭に燃え盛る炭火を積むことになるとはね、と、親切などできたものじゃなくなります。
「祝福」とか「愛」を行うことが、逆に敵の頭に燃え盛る炭火を積むことになるなんて、難儀な話です(笑)
愛を説いてると思いきや、恨み辛みが透けて見える箇所であり、これは何の目的で聖書に記されたんだろうと、読みながら思いました。
・・・今、ふと思いましたが、これは神様のパズルがやはり仕掛けられているかも知れません。
つまり、私達が敵に親切にする時には、「神よ、私の親切によって、どうか彼(敵)の頭に燃え盛る炭火を積むことがありませんように。どうか、どうか彼をお赦しください。」という敵のための「執り成しの祈り」を付加せざるを得なくなる。
執り成しの祈りへと促されることになる。
神のチャーミングな仕掛けに、なんだか微笑んでしまいました。
アドさんは、この箇所、どう感じていましたか?
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今丁度、ヨブ記を読み直しています
いや、もう神様って旧約聖書時代は本当にやりたい放題ですね
神が殺した数:200万人
悪魔が殺した数:10人
イエスキリストの存在って若い頃は意味不明だった
でも年々その偉大さを知るようになった
私は苦悩しています
だけど、執り成しの祈りをしています
神社の家系なので 儀式にそって憎んだりもしました
その方たちは見事に不幸になったりもして
ちょっと怖くなった
だから私は「負の感情に囚われない」みちを選んだ
世の中には 不思議なくらい 親切な人が居ます
でも、その人の本心は怒りの塊だったりもします
本当に、本当に考えてしまいます
もうその時点で、神様のわなに嵌っているのかも 笑