【視点】秋田連続児童殺害 「あいまいな心情」考慮
2008年3月20日(木)03:37 産経

 弁護側の主張を退け「2人殺害」を明確に認めながら、死刑を回避した秋田地裁判決には違和感を覚える国民も多いだろう。
 だが、その結論は伝統的な論理構成から導き出されたものだ。死刑適用の可否は、昭和58年に連続4人を殺害した「永山事件」の最高裁判決が示した(1)犯罪の性質(2)動機(3)態様(4)結果の重大性、特に被害者数(5)遺族の被害感情-などを総合評価することが事実上の「基準」になっている。
 秋田地裁判決はこれらに照らし合わせ量刑を検討したが、「死刑を適用し、被告の生命をもって贖罪(しょくざい)を求められることも十分考えられるところだ」と裁判長が死刑適用に理解を示しながらも、躊躇(ちゅうちょ)した理由は、▽犯行がいずれも計画的になされてはいなかったと認められること▽これまで被告に前科前歴がなく犯罪傾向が強いとはいえないこと▽家族が被告を支えると意思表示しており更生の可能性が認められること-を評価したためだ。
 藤井裁判長が示したこれらの「被告に斟酌(しんしゃく)すべき事情」が、真に斟酌すべきものであるかどうかの評価は難しい。裁判官によってもその評価の具合は分かれるし、「究極の刑罰」である死刑の宣告に揺れる職業裁判官の姿も浮かんでくる。
 だが、素人であるおおかたの国民にとっては、「なぜこの事件が死刑でないのか」という疑問が残ろう。その国民が来年5月までには裁判員として裁く側に参加する。そのとき今回のような事件で死刑判決を導き出すエネルギーとなるか、逆にさらに慎重な方向に引っ張るか、想像がつかない。
 今回の判決はあいまいな被告の心情を斟酌・重視しているだけに、これから裁判員となる国民の判断の参考となり得るか、議論の分かれるところだ。(豊吉広英)

裁判官は責任能力に問題がないと判断したのなら、抵抗する術も無くかつ殺されるべき理由は全く無い子供を2人も殺害(しかも1人は自分の娘)のだから、本件は死刑が至当の判決だと思うよ。

裁判官は、中立の立場で公正な裁判をするために、その良心に従い独立してその職権を行い、日本国憲法及び法律にのみ拘束される(日本国憲法第76条)とされる(裁判官の職権行使の独立)。

この裁判官は、どういう良心を持って、彼女に更正の可能性があると判断したのだろうか。
また、一般論であるけど、更正の可能性があると裁判官がその良心に従い刑を軽減した犯罪人が更正せず犯罪を繰り返した場合も、別に、裁判官は責任を問われないんだよね。更正は、行政と社会学の問題だから、そんなの関係ねぇ!ってことなんだろうか、そう考えると、更正の可能性なんていう判断は、まさにオッパピィな領域に過ぎないんじゃないか。

犯人を死刑にするかしないか、この基準を再考すべきだよ。
被害者の数なんて基準は極めてナンセンス。
まず、子供を殺したら死刑。
自分の都合(金が欲しかったとか、やりたかったとか)で、殺害されるような落ち度の全くない他人を殺しても死刑。
この2本柱は確立して欲しいものだ。

そういう意味で、秋田の児童殺害は死刑、東京のセレブ妻の夫バラバラ殺害は、今の段階の心神面責任能力の認定には疑問があるけど、死刑には当たらない、これが僕の考え方だね。

死刑とは別の話になるけど、例えば、公務員の横領、汚職、談合などの犯罪について、社会的制裁を受けているとか言う理由で、やたらと執行猶予を濫発する裁判官が多い日本の現状には、ため息が出るよね。