朝の、新聞チェックしていたら、伊吹文科相の発言に関して、日経と産経のコラムが、それぞれ取り上げていた。

春秋(9/29)
 「必要は全くない」とは、ずいぶん割り切った発言だ。導入の流れが強まっていた小学校での英語必修化について、伊吹文明文部科学相が待ったをかけた。「美しい日本語が話せず書けないのに、外国語を教えても駄目」なのだという。

▼賛否が分かれる問題だから一石を投ずる意味はあろう。が、使えない受験英語に苦しんだ身としては思う。子供時代に耳から覚えた言葉は理屈抜きで身に付くはず。かつてそんな機会があったなら……。既に多くの小学校が英語に親しむ時間を設けているが、「アップル」の発音一つ聞いてみても感心してしまう。

産経抄
▼伊吹氏は小紙などとのインタビューで、小学校での英語必修化を「必要はまったくない」とバッサリ切り捨てた。「国民として生活する最低限の能力と義務を教えるのが義務教育。これが果たせていないのに別のことをやってもいけない」とも語ったが、まったく同感だ。
▼英語をぺらぺらしゃべれるだけでは、真の国際人にはなれない。自国文化の裏付けのない人間は根無し草同然だ。小学生には自国語の「読み書き」をきっちりとたたきこむのが先決であり、外国語は中学生になってから始めても遅くはない。
▼教育現場で何よりも急がれるのは、国際化ではなく、教師の質の向上だろう。いまだに日の丸、君が代を目の敵にしている教育労働者のみなさんは論外にしても、教師が凡庸なら子供たちの才能が開花する可能性はぐっと低くなる。指導者がいかに大事かは野球やサッカーの監督をみれば一目瞭然(りょうぜん)だ。教育改革はつまるところ教師改革に尽きる。

全く、偶然にも、海外で仕事をする機会を得て、通算約14年間の海外勤務を経験してきた僕は、英語の必要性は十分理解している。

しかし、別に、小学校から義務化する必要はないのじゃないか、義務化したとしても、そもそも週1時限のコマ数じゃ、どれだけ効果があるか、はなはだ疑問。

経験上、語学は、よっぽど能力と意欲に欠ける人間でもない限り、必要に迫られれば勉強するし上手くなる。学んだことを、即、実戦で試す機会が、英語を第一外国語あるいは共用語とする他国と国境を接している国々と比べれば、はるかに少ないと思われる日本では、あまりに幼い時期に、効果に疑問のある時限数で教えても、大人が頭で考えた効果は上がらないんじゃないだろうか。

小学校での英語必修に関して、100%頭から否定はしないけど、別に、そこまでしなくてもいいんじゃないか、と思うね。
それよりも何よりも、産経の言うように、まず、まともな教師ー教育”公”務員-を多数養成するのが、日本の教育には一番大事だと思う。