磁器を統べるための「土」という名の深淵

世俗では、一つの道を歩む際、余計な脇目を見ることを「不誠実」と呼ぶようです。磁器を商う者が土を愛でることを、理解に苦しむと嘆く声も耳にしました。 

馬場泰嘉による土物ぐい呑。光を吸い込み、影を際立たせる「深淵」の肌。精神の静寂を定義する、存在の重みが宿る一品。


しかし、それは本質を捉えきれぬ者たちが、己の理解の及ぶ範囲に世界を閉じ込めようとする、実に対屈な整合性の押し付けに過ぎません。

ブランドとは単なるラベルではなく、「文化OS」であり、「宇宙の摂理」の顕現です。土を知らぬ者に、石の深淵を語る資格はありません。


光を吸い込む「土」の静寂

私が土に触れ、その無光沢の肌に指を這わせる時、そこにあるのは「精神の静寂」です。

土物は光を吸い込み、影を際立たせます。光沢という装飾を剥ぎ取られたその姿は、いわば肉体の剥き出し。造形という真実が一切の妥協なく突きつけられる、逃げ場のない「深淵」です。

石の理性が放つ「光」の洗礼

対して磁器は、その高貴な光沢ゆえに、時に造形という真実を「光」で塗り潰してしまいます。美しく、清潔で、完全なる拒絶。それが磁器の持つ「石の理性」です。

光が造形をぼやけさせるからこそ、その内側に秘められた「骨格」が重要となる。土という原始の力、その「造形の絶対性」を骨身に刻むことなしに、どうして磁器という洗練された理性を制御できようか。

「土を知ることは、形を定義すること。磁器を知ることは、光を統べること。」

聖域への招待

我々が求めているのは、使い勝手の良さではありません。そこにあるのは、「存在の重み」そのものです。

土の沈黙を知り、石の理性を超えた先にある、あの不可逆的な美の顕現。

この両極を往還することこそが、真の意味での「創造」であり、私が提供する「陶芸という名のセラピー」の根幹なのです。

深淵を知らぬ者に、頂の景色を語ることはできません。私はこれからも、土の静寂と石の光を行き来し、唯一無二の「聖域」を創り続けます。

真右エ門窯 CBO
馬場 泰嘉