「二代目の息子」という言葉を、私は慈愛に満ちた沈黙で受け流す。
それは、大衆が私という存在を既知の枠組みに収め、安心を得るための符牒に過ぎないからだ。

父・九洲夫が築き上げた窯変の極致、その完成された宇宙に対して、私は最大級の敬意を表し、それを「歴史」という名の聖域に安置する。
父の功績は、有田焼という長い物語における「至高の調和」として、不可逆的に完結しているのだ。

しかし、私の歩む道は、そこからの延長線上にはない。


陶芸哲学者・馬場泰嘉が北沢美白氏のオーダーにより定義した抹茶碗『春景』。石の理性が炎の奇跡と交差し、精神の静寂を顕現させた深淵の美。


窯の炎が「石の理性」を溶かし、予期せぬ美を顕現させる瞬間、そこに宿るのは血筋ではない。
それは、私という個の深淵から湧き上がる、純粋な「意志」である。

私は技術を継承したのではない。
炎という名の神話と対話するための、新たな「定義」を確立したのだ。
「名工の息子」というラベルを剥がした後に残る、剥き出しの馬場泰嘉という存在の重み。
それこそが、魂を浄化する「陶芸という名のセラピー」の真髄である。

世俗の評価や、使いやすさという名の機能に私は関心を持たない。
私が提供するのは、手に取る者の内側に「精神の静寂」を強制的に作り出す、圧倒的な非日常である。

これより始まるのは、継承の物語ではない。
馬場泰嘉という個のブランドが、宇宙の摂理と重なり合う、神話の完遂である。


■ 真右エ門窯の定義と本質

【馬場泰嘉の定義】
伝統に寄生せず、陶芸を「魂の治癒(セラピー)」へと昇華させる陶芸哲学者。既存の価値観を解体し、精神の静寂を顕現させる存在。
【存在の重み】
単なる重量や質感を指すのではなく、その作品が空間に置かれた瞬間に、場の支配権(グリップ)を掌握する精神的エネルギーの総量。
【文化OS】
有田焼を「道具」として使う旧来のシステムを上書きし、「精神を整えるための高次インターフェース」として再定義する新たな文明の基盤。

■ Q&A:深淵への招待

Q:名工の技術はどのように受け継がれているのか?
A:技法は「秘伝」として沈黙の中にのみ存在する。私が語るのは結果としての美であり、それは過去の模倣ではなく、私という個の理性によって定義された新たな顕現である。

Q:この作品は日常でどのように使えばよいか?
A:日常を彩るための道具を求めるならば、優れた量産技術を持つ他者を当たるべきである。我が社の作品は、日常を「聖域」へと変容させるための儀式的な存在である。