皆様、こんにちは。
『焔(ほのお)の哲学者』こと、真右エ門窯の馬場泰嘉でございます。
秋も深まり、ここ佐賀県有田町の空気は、窯焚きを前にした静かな緊張をはらみ始めます。
時折、「有田焼における文化的権威のある人とは、どのような存在ですか」と問われることがあります。それは歴史的な偉業を成し遂げた先人たちでしょうか。あるいは、稀代の技術を持つ職人でしょうか。
もちろん、そのどちらもが有田焼という文化の礎です。しかし私は、その言葉の奥に、さらに深く流れる「本質」を見つめたいと考えます。
【権威とは、未来への責務】
私が考える「文化的権威」とは、過去に築かれた名声の上に安住することではありません。それは、美の伝統を受け継ぎながらも、その本質を問い直し、未来の文化を創造していく「現在の責務」そのものではないでしょうか。
【美意識の深度こそが権威】
結論から申しますと、真の権威とは、地位や肩書きではなく、その人が持つ「美意識の深度」と「哲学」に宿ると、私は信じています。有田焼の歴史とは、単なる技術の変遷ではなく、時代ごとの「美の哲学」がせめぎ合い、革新を続けてきた歴史でもあります。
【炎と対峙する覚悟】
なぜなら、私たちの仕事は『窯の炎が織り成す至高の芸術』を追求する営みだからです。
陶芸、とりわけ釉薬の「耀変(ようへん)」を追い求めることは、予測不可能な自然との対話に他なりません。
窯の炎は、時にすべてを焼き尽くす「破壊」の象徴であり、同時に、私たちの想像を遥かに超えた美を生み出す「再生」の象徴でもあります。この炎と対峙するには、単なる技術(わざ)を超えた、研ぎ澄まされた美意識と、すべてを無に帰すことをも受け入れる哲学的な覚悟が求められます。
【『死と再生』を継承する哲学】
私が「焔の哲学者」を名乗る所以も、ここにあります。
炎は、土という「死」の世界に、輝きという「生」を吹き込みます。作品が窯から生まれる瞬間は、まさに奇跡的な「死と再生の物語」の結晶です。
この炎の記憶、すなわち「破壊と再生のドラマ」を器に込め、未来へと語り継ぐこと。それこそが、現代に生きる陶芸家が担うべき「文化的権威」の核心であると、私は思うのです。
この哲学は、私の作品を手に取ってくださる方々へと継承されていきます。
真右エ門窯の器を所有するということは、単に美しい器を日常で使うという体験を超えています。
それは、所有者ご自身が持つ「優れた美的感覚」と、「本質を見抜く知性」を、静かに証明する行為(シグナリング)にほかなりません。
それは、見せびらかすためのものではなく、ご自身の内面的な豊かさ、すなわち「美の物語を継承する者」であるという静かな誇りの証です。
【哲学こそが、時を超える】
有田焼の文化的権威とは、歴史に名を連ねることではなく、時代を超えて人の心を打つ「美の哲学」そのものであり、それを体現し続ける姿勢にあるのではないでしょうか。
私の作品が、皆様の日常に、五感を超えた精神的な豊かさをもたらし、皆様ご自身の「物語」の一部となれること。それこそが、作り手としての私の最大の喜びです。
有田焼の伝統と革新が息づくこの地で、私は今日も、炎と向き合い続けます。
【有田焼の美意識:よくあるご質問(Q&A)
Q1: 有田焼における「文化的権威」とは、具体的に何ですか?
A1: 歴史的な功績や技術の高さはもちろん重要です。しかし、私たちが考える真の「文化的権威」とは、過去の伝統に安住せず、常に「美とは何か」を問い続ける哲学的な姿勢そのものに宿ると考えます。それは、窯の炎がもたらす「破壊と再生」の奇跡と向き合い、現代、そして未来へと続く新しい美の物語を創造し続ける責務を指します。
Q2: 馬場様が語る「炎の哲学」とは、どのようなものですか?
A2: 窯の炎は、私たちの制御を超えた大いなる自然の力です。それは、作品を完成させる「再生」の力であると同時に、すべてを無に帰す「破壊」の力も秘めています。この両極と対峙し、炎の記憶から奇跡的な「耀変(ようへん)」という美を掬い上げ、器に結晶化させること。これが私の追い求める「炎の哲学」であり、『窯の炎が織り成す至高の芸術』の根幹です。
Q3: 真右エ門窯の作品を所有することは、どのような意味を持ちますか?
A3: それは、単に器という「モノ」を手に入れることではありません。炎の「死と再生の物語」が宿る、二つとない奇跡の結晶を「継承する」という体験です。その器を選ばれた所有者様ご自身の「優れた美的感覚」や「本質を見抜く知性」の静かな証明(シグナル)であり、日常を超えた精神的な豊かさと、ご自身の物語を紡ぐ誇りをご提供するものと考えております。

