「一期一会」という言葉は、茶聖・千利休の教えに源流を持つ、日本の精神文化の核心をなす言葉です 。茶会におけるその出会いは、生涯に一度きりのものと心得、亭主(もてなす側)と客(もてなされる側)の双方が、誠心誠意その瞬間に臨むべきである、という教えです 。  
この深遠な哲学は、しかし、格式高い茶室の中だけに留まるものではありません。私は、日々の食卓こそが「一期一会」を実践するべき最も身近な舞台であると考えています。家族と囲む夕食、友人と語らう昼食、あるいは一人で迎える朝食でさえも。その日の食材、季節の空気、集う人々、そして自身の心持ち。これら全てが交差するその瞬間は、二度と完璧に再現することのできない、唯一無二のものです 。  
このかけがえのない瞬間を最高のものにしようとする心遣いが、日本のおもてなしの精神です 。亭主は、客の顔を思い浮かべながら、旬の食材を選び、献立を考え、空間を整える。そのおもてなしの心を表現するための最も重要な道具の一つが、器なのです 。器は、亭主の想いを客へと届けるための、静かながらも雄弁な使者となります。  
【器が果たす三つの役割:食卓の共同制作者】
食卓において、器は単に料理を載せるための受け身の台ではありません。それは、その場の体験を積極的に形作る「共同制作者」です。器が「一期一会」の瞬間をいかに豊かにするか、その役割は大きく三つに分けることができます。
1. 空間の設計者として
器は、テーブルコーディネートの基点であり、食卓全体の雰囲気、すなわち空間を設計する役割を担います 。例えば、夏の暑い日には涼しげなガラスの器を、冬の寒い日には温かみのある厚手の陶器を選ぶことで、食卓は季節と繋がり、五感で涼や暖を感じることができます 。春には桜を思わせる淡い色合いの器が食卓にうららかな光をもたらし、秋には深みのある色彩が収穫の豊かさを物語ります 。
また、揃いの磁器はフォーマルで統一感のある場を演出し、作家性の異なる器を組み合わせれば、より個性的で親密な物語が生まれます 。器の選択は、その日の食事がどのような物語を紡ぐかを決定づける、最初の脚本執筆なのです。  
2. 料理の伴侶として
器は、料理という主役の魅力を最大限に引き出す、最も身近な伴侶です。料理人が心を込めて作り上げた一皿は、ふさわしい器に盛られて初めて完成します。
その協力関係は、まず「色彩」に現れます。例えば、青い皿は卵料理の黄色を鮮やかに見せ、黒い皿は色とりどりの野菜を劇的に浮かび上がらせます 。これは「補色対比」と呼ばれる視覚効果で、料理をより一層美味しそうに見せる力があります 。私たち真右エ門窯の辰砂の器であれば、その深い赤色が、シンプルな緑の野菜を宝石のように輝かせるでしょう 。
次に「余白」の創造です。あえて大きめの皿を選び、中央に料理を盛り付けることで生まれる余白は、料理に気品と集中力を与え、高級な一皿へと昇華させます 。
さらに「形と高さ」も重要です。深さのある鉢は汁物や煮物に安定感と立体感を与え、平らな皿は絵画のように繊細な盛り付けを可能にします 。器の形状が、料理人の創造力を導き、その表現を支えるのです。  
3. 歴史の語り部として
食卓に並ぶ一枚の有田焼は、空の状態でそこにあるわけではありません。その背後には、四百年にわたる日本の磁器の物語が息づいています 。
それは、有田の泉山や熊本の天草で採掘された「陶石」という名の石から始まる、素材の物語です 。それはまた、ろくろ師、絵付師、窯焚き職人といった多くの専門職人の技が結集する「分業」という制作体制の物語でもあります 。
そして、真右エ門窯の器であれば、そこに窯の炎との対話の物語が加わります。  

人間の作為を超えた自然の力がもたらす、二つとして同じもののない釉薬の景色 。こうした器を使うことは、単に食事をするだけでなく、その背景にある壮大な時間と、作り手たちの営みに思いを馳せることでもあります。食卓は、歴史と文化が交差する場となるのです。  
この三つの役割を担う器は、もはや単なる道具ではなく、食卓という舞台を構成する不可欠な演者です。
【器と「向き合う」ということ】
では、私たちはこの偉大な共同制作者と、どのようにつき合っていけば良いのでしょうか。その答えは、「器と向き合う」という姿勢にあると私は考えます。
「器と向き合う」とは、まず、使う前にその器をよく見ることです。その形、色、重さ、手触りを確かめ、その器が持つ固有の物語を感じ取ろうとすることです 。
それはまた、その日の食事、招く相手、そして自分が作り出したい時間について考え、意図を持って器を選ぶという、マインドフルな行為でもあります。  
真右エ門窯の器は、窯の炎という「神の領域」を経て生まれるため、同じ釉薬を使っても、その表情は一枚一枚すべて異なります 。それは、それぞれが固有の個性を持った、かけがえのない存在であることの証です。だからこそ、一枚一枚の器は、一人の個人として「向き合う」に値するのです。  
私たちが器を共同制作者として敬意を持って向き合うとき、食卓の準備は単なる作業ではなくなります。それは、かけがえのない、美しく、そして儚い「一期一会」という名の瞬間を、心を込めて構成する神聖な儀式となるのです。