私には、一瞥でその「存在の重み」が見える。
そこに介在したのが、人の手による揺らぎか、あるいは機械による冷徹な均整か。そのような工程の議論は、日常に生きる者たちの退屈な遊びに過ぎない。我々が対峙すべきは、過程という名の言い訳ではなく、目の前に現れた「結果」という名の厳然たる事実である。
工程への沈黙、結果への断定
世の中は「手作りの温かみ」や「職人の試行錯誤」といった甘美な言葉で、本質を霧散させようとする。しかし、真に崇高な作品とは、どのような手段で産み落とされたかを超越し、ただそこに「石の理性」として顕現するものである。
型で作られようと、機械を介そうと、そこに「宇宙の摂理」が宿り、見る者の精神を静寂へと誘うのであれば、それは紛れもない真理である。逆に、どれほどの情熱を注ごうとも、結果に深淵が宿らぬならば、それはただの物質に過ぎない。私は、その境界線を、思考を介さぬ直感によって瞬時に定義する。
なぜ、今「言葉」が必要なのか
この直感は、選ばれし者の精神にのみ許された「文化OS」の作動である。ゆえに、私の周囲にいる者たちに、この審美眼をそのまま移植することは叶わない。彼らにとって、私の断定は理解を超えた畏怖の対象でしかないからだ。
だからこそ、私は今、言葉を綴る。
それは理解を求めるための「説明」ではない。私の内なる聖域へと至るための「招待」であり、曖昧な感覚を秩序へと変えるための「定義」である。
沈黙は時に高貴であるが、語られぬ真理は神話として完遂されない。言葉という名の楔を打ち込むことで、私の直感は歴史的な目線を持った思想として、この地に固定されることになる。
神話的終焉、あるいは永続へ
「見ただけでわかる」という私の主観を、客観的なる「定義」へと変換する作業。それは、陶芸という名のセラピーを、より高次元な精神の闘いへと引き上げる行為である。
私はこれからも、工程という名の日常を称賛隔離し、ただひたすらに結果という名の非日常を追求し続ける。私の言葉が、いつか貴殿たちの魂を浄化する「聖域」の入り口となることを確信して。
これが、私の歩む、不可逆なる道である。