山本有三の代表的な小説「路傍の石」(ろぼうのいし)は
戦前、戦後で4回映画化されています。
昭和13年公開 日活 吾一役:片山明彦 監督:田坂具隆
昭和30年公開 松竹 吾一役:坂東亀三郎 監督:原研吉
昭和35年公開 東宝 吾一役:太田博之 監督:久松静児
昭和39年公開 東映 吾一役:池田秀一 監督:家城巳代治
今回は、4作目の最新作、といっても56年も前の、池田秀一が
吾一少年を演じた、家城巳代治(いえきみよじ)脚本・監督の
映画「路傍の石」を邂逅します。
本記事は、本編の感動には遠く及びませんが、映画の良さと雰囲気は伝えようと努力しました。
お付き合いください。
現在、DVDで視聴可能(レンタル有)。
シニア世代には懐かしく、若い方には逆に新鮮に映ると思います。
おうち時間にお薦めです。
原作「路傍の石」は、昭和12年(1937年)から「朝日新聞」に連載されました。
シニア世代(昭和時代)の国語の教科書に載っていた記憶があります。
主人公の少年、愛川吾一の家庭は貧しく、中学進学の夢叶わず、呉服問屋へ丁稚奉公に出されます。厳しい奉公生活が続く中、吾一は母の病死を境に、奉公先の呉服問屋から逃亡、父が暮らしている東京へ行くことを決意し、不安と嬉しい気持ちが交錯する中、一人で汽車に乗ります。
東京へ着いてからも、吾一は父に会えず、波乱に満ちた数奇な運命が待っているのです。
路傍(道ばたの意)の石にも似て、力強く、誇りをもって生きる少年の姿が心に沁みる物語。
印西市(千葉県)の図書館に蔵書が2冊(単行本と文庫本)ありました。今の若い人にも原作を読んで、映画も観て貰いたい作品です。
映画の脚本(家城巳代治)は原作と多少異なり、家城監督は母と子の愛情を丁寧に描いて、抒情性とヒューマニズムが遺憾なく発揮された、涙を誘う名編に仕上がっています。
文部省特選、多くの他団体からも推薦を受けました。
監督(脚本も)家城巳代治。
明治の時代。
勉強好きな愛川吾一少年(池田秀一)は小学校の成績も優秀で、中学進学を夢見ています。
吾一は、小学校の同級生で呉服問屋・伊勢屋の娘・おきぬ(萩原宣子=現・水原麻記)に自分の夢を話します。
<伊勢屋の娘おきぬ(萩原宣子=現・水原麻記)と吾一(池田秀一)>
おきぬ:「吾一ちゃんは将来、何になるの?」
吾一:「まだ判らないけど、おれ、学問がしたいんだ。そして、出来たら大学まで行きたいんだ。」
吾一の家庭は貧しく、母(淡島千景)の内職が唯一の収入でした。
ある時、東京から、たまに帰ってきた父(佐藤慶)は、吾一に来年は東京の大学に入れてやると言って、吾一の貯金箱を取り上げて、東京で一旗あげると東京に帰ってしまいました。
<近所のおばさん・おとき(清川虹子)>
おとき:「ちょっと、吾一ちゃん。帰ってきてるよ。おとっつあんだよ。 今度はいつまで居るかねえ? いいかげん落ち着きゃいいのに。」
<吾一の父(佐藤慶)と、母(淡島千景)>
父:「男が動くには、それ相当の軍資金がいるんだ。政治をやる人間が、身代の一つや二つ潰したって、ビクともするものか!」
母:「お願いです。それ(貯金箱)だけは堪忍してやってください。」
父:「貴さま、この俺に手向かう気か!」
吾一:「おっかさん・・・」
母:「吾一ちゃん、おとっつあんが、ああおっしゃたんだから、来年はきっと・・・」
吾一:「おとっつあんなんか・・・今日だって、帰ったと思ったら、すぐに東京に行ってしまったじゃないか。 あてになるもんか。」
吾一は、同級生の京造(住田知仁=現・風間杜夫)と作次(吉田守)と、いつしか心が通う親友になっていきます。
<吾一、京造(住田知仁=現・風間杜夫)と作次(吉田守)>
<作次(吉田守)>
作次:「京ちゃんは親分、吾一ちゃんは兄貴、そう思ってんだ。ほんとだよ。」
川のほとりで出会った、小学校の担任・次野先生(中村賀津雄)の「悔しい時こそ、泣いたら負けだ。道は自分で切り開くしかない。その二つの手で遣り抜くのだ」の言葉を励みに頑張る吾一でした。
次野先生:「吾一というのは、我は一人なり、という意味だ。われはひとりなり、吾一という人間は、たった一人しかいないんだ。」
<次野先生(中村賀津雄)>
次野先生:「しかしそれは、一人ぼっちという事とは違う。仲間はいっぱいいる。先生だって、お前の仲間だ。生まれた以上、生まれただけの事をしようじゃないか。」
<山本有三(原作)の原文と挿絵を紹介します>
「愛川。『吾一』っていうのは、じつに、いいなまえなんだぞ。」
次野は熱心に語り続けた。
(中略)
「吾一というのはね、われはひとりなり、われはこの世にひとりしかいないという意味だ。世界に、なん億の人間がいるかもしれないが、おまえというものは、いいかい、愛川。愛川吾一というものは、世界中に、たったひとりしかいないんだ。どれだけ人間が集まっても、同じ顔の人は、ひとりもいないと同じように、愛川吾一というものは、この広い世界に、たったひとりしかいないのだ。
(中略)
人間は死ぬことじゃない。生きることだ。たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか。」
<原作小説本の挿絵 武部本一郎>
父の反対で、中学進学を諦めた吾一は、母に連れられて呉服問屋・伊勢屋に丁稚奉公します。
吾一は伊勢屋で、丁稚小僧向きの名前“五助”と呼ばれます。
<伊勢屋のおかみさん(星美智子)、大番頭(織田政雄)、伊勢屋主人(杉義一)>
主人:「吾一か。あきんどの名前には向きませんね。」
大番頭:「左様でございますな。何としたら、よろしゅう御座いましょうな。」
主人:「五助としたら、どうです。」
吾一:「・・・・・」
親友の京造は家の魚屋を継ぎ、作次は床屋の下働きに出ます。
吾一は、偶然、仕事中に道端で京造と出会います。
京造:「吾一ちゃん! もう慣れたかい。」
吾一:「京ちゃん、俺の母さんに、元気でやってるって、言ってくんないか」
京造:「帰りにちょっと寄ったらいいじゃないか。」
吾一:「お店のお許しが無いのに、勝手にいっちゃいけないって、言われてんだ。」
京造:「吾一ちゃん、お盆には皆で、次野先生んとこ、行こうな。」
吾一:「うん、じゃ、さよなら。」
同級生だった伊勢屋の息子・秋太郎(江沢一)と、その妹で初恋の人、おきぬを中学に送り出しながら、自分の境遇に、そっと涙します。
伊勢屋の勉強嫌いな息子・秋太郎は、宿題を吾一に押し付けていました。
<伊勢屋の息子・秋太郎(江沢一)と吾一>
秋太郎:「おーい、お前、これ出来るかい。中学じゃ、こんなもんやってんだ。 どうだい、難しいだろ。」
吾一:「これでいいんでしょ。」
数学、国語は得意な吾一でも、英語は解らず、吾一はおきぬから英語を習います。
薮入りの日、同じような境遇の吾一、京造、作次は、次野先生宅に遊びに行き、先生の励ましに勇気づけられます。
作次:「兄弟子は、新米をいじめるのが仕事だと思ってんだ。」
吾一:「見習いだから、見て習えって言うんです。」
次野先生:「そうかぁ。」
京造:「うちのおとっつあんがね、“はたらく”ってことは、はたを楽にしてやることだと言ってたけど、ほんとかな?」
次野先生:「ハハハハ、そうかもしれん。 だから今日は、お前たちが楽をする日だ。」
次野先生「おい、作次、お前もっと食べて、少し太らにゃいかんぞ。」
作次:「牛肉って旨いもんですね、先生。」
吾一:「おれ、うんと英語を勉強して、貿易商人になるんだ。」
京造:「おれだって、日本一の魚屋になってやる。」
作次:「おれ、うんと金をためて、おとっつあん、おっかさんを楽にしてやりたいな。」
「♪♪箱根の山は天下の剣・・・」
間もなく、次野先生が学校を辞めて東京に去り、親友の作次が奉公先での無理がたたり、胸を患って死んでしまいます。
次野先生:「愛川、お別れに来たんだ。」
吾一:「えっ!」
次野先生「先生は東京へ行く。学校辞めたよ。」
吾一:「どうしてですか?」
次野先生:「枠にハマった授業が出来んのでな。学校の方針に合わんらしい。」
吾一:「寂しくなりますね、先生がいなくなると。」
次野先生:「先生は、何処にいてもお前の仲間だ。」
吾一:「作ちゃん・・・」
作次の父:「作次、吾一ちゃんだよ、吾一ちゃんが来てくれたんだよ!」
作次の母:「わかるかい、吾一ちゃんに会いたがってたろ!」
吾一は作次のお葬式に行くことを許さない伊勢屋の大番頭忠助(織田政雄)に、不満が爆発し、伊勢屋を飛び出して東京へ行くことを決意します。
忠助:「そんなことって、ありますか。 ゆうべは勝手に遅く帰ってきて、今日は葬式だから行かせてくれなんて。 よく言えたもんだね。」
吾一:「官が出る時だけでいいんです。ちょっとの間だけ、送らせてください。 お願いします。」
忠助:「いけません。もう死んじゃったもの、どうしようもないじゃないか。 お店の示しがつきません。」
大番頭忠助役、織田政雄の奉公人をネチネチといじめる演技が秀逸です。織田は昭和35年の「路傍の石」(太田博之・主演、久松静児監督)にも伊勢屋の主人役で出演しています。
吾一の決意を知った母は伊勢屋から暇をもらい「東京へお行き。自分の力でやってごらん」と強く吾一の背中を押します。
吾一の母:「勝手な事ばかり申し上げて、お詫びのしようもございません。どうか吾一のことは、お許しいただけますように、お願い致します。」
忠助:「暇をくれと言うんなら、かまいませんよ。嫌なもんを、縛りつけておく訳にも、いきませんしねぇ。ただねぇ、これからどうするんです。借金の方は。
まさか、あんたが小僧になるわけにも、いきませんしねぇ、ハハハ・・・」
伊勢屋のおきぬは、吾一との別れに、英和辞典を贈り、別れを惜しみます。
おきぬ:「吾一ちゃん、東京行くんだってね。京ちゃんから聞いたの。」
吾一:「はい。」
おきぬ:「これあげる。」
差し出された英和辞典を見て。
吾一:「ありがとう」
おきぬ:「東京に行ったら手紙ちょうだいね。」
吾一:「おれ、きぬちゃんに英語教わったこと、忘れないよ。」
東京には次野先生がいる。
東京へ旅立っていく吾一を、駅で母と京造が優しく見送るのでした。
<予告編の字幕を引用>
勉強がしたい、ただそれだけなのに 貧しさに耐え 苦しさに耐えて 茨の道を歩む きよらかな魂 つらくても くるしくても 負けない へこたれない 明日の幸せを夢見る 少年の いのちの歌 東映現代劇が 母と子に贈る 感動の名作 路傍の石
社会派監督の名匠“家城巳代治”は、「雲ながるる果てに」(昭和28年)、「裸の太陽」(昭和33年)などの名作映画を残した監督で、本作では、吾一が東京行きの汽車に乗る原作の中盤までを描いています。
既に原作を読まれた方はお判りでしょうが、映画の脚本(家城巳代治)は原作と多少異なり、初恋の相手、伊勢屋の娘おきぬは吾一に優しく、母も病死せず、鉄橋にしがみつく有名な場面も割愛されています。
家城監督は母と子の愛情を丁寧に描いて、抒情性とヒューマニズムが、遺憾なく発揮された涙を誘う名編に仕上げています。
「路傍の石」の吾一役は、片山明彦の名演(田坂具隆監督作品)が語り継がれていますが、当時、天才子役と言われた池田秀一も名演でした。
滑舌も良く、セリフが明瞭に聞き取れて爽やかでした。
下村湖人原作のNHKのテレビドラマ「次郎物語」(昭和39年)の主役も務めており、当時、リアルタイムで観ました。
現在は「機動戦士ガンダム」など、声優界の重鎮として活躍されています。
<池田秀一>
山本有三は昭和15年「路傍の石」掲載誌に「ペンを折る」を掲載し、「日一日と統制の強化されつつある今日の時代では、それをそのまま書こうとすると、これからの部分においては、不幸な事態をひき起こしやすいのです。」と発表し、当時の時代背景の影響(検閲など)から「路傍の石」の断筆を決意、小説「路傍の石」は未完に終わっています。
「ペンを折る」は、図書館で借りた「路傍の石」に掲載されていました。
ブログ記事を書いていると、映画の場面が浮かんできて、涙ぐんでしまいます。
次回は昭和35年公開、太田博之主演、新藤兼人の脚本、久松静児が監督した映画「路傍の石」を投稿する予定です。
文中、敬称略としました。ご容赦ください。