念仏を称えるだけで救われる事はあるのか、
ないのか・・・
それは、ありますし、ありません
どっちなんですかい?
発展段階のある地点においては、それだけ
で救われます
そして、それだけでは救われない時もやって
来ます
具体的に言えば、唯識を学ぼうと、空を学ぼうと
、一切経を全部読もうと、それが学に留まれば、
感情は置き去りにされます
そんな事より、念仏称えてた方が救われます
こんな場面を想像してみて下さい
短気で暴力を振るってしまう人が、もう止めたい
と心から改心したとします
ありとあらゆる仏教哲学を学ぶのですが、どうして
も他を尊ぶ事を喜べない
そりゃ~そうでしょう
暴力を止めたい理由だって、結局自分がムショに
入りたくないからであって、他を慈しむ心からじゃな
いでしょう
そんな人に、どれだけ理論ぶちかましても、感情が
満足する事はありません
じゃあ、一生暴れん坊でいなけりゃならないのかと
いえば
そこで、念仏です お題目でもいいですよ
今話題のあおり運転の末の暴力の場面において、
正に殴ろうとしたその時
そんな時は合掌して念仏を100回唱える事を
教えられている
念仏称えている時は、合掌してるから手は出せない
し、100回唱え終わるまでは動いたらいかん
その間に、相手は窓を閉められるし、逃げる事も
出来る
もし逃げてなくても、100回唱えてたら、殴る気が
なくなっていた
もしまだ殴る気が去っていなければ、もう100回
唱える
というように、殴る気が去るまで念仏をする
これは救いになりませんか?
少なくとも、1回の暴力事件は回避された事に
なりますよね
仏の救いってのは、凡夫にとってはこのような
事で事足りるんじゃないんでしょうか
善智識や菩薩じゃないんだから難しい学問
は不要でしょう