仏教でいう智慧とは、智は、差を分けて知る力で、慧
とは、それらは平等な根元を持つと知る力の事です
大変見識の高い方ですが、何故か人の努力とか、
物事の区別(差別)を嫌う方がおられて、どうして
かなぁ~?・・・と思ってましたが、これが氷解しまし
た
慧だけが発達している人は、物事の根元ばかりを
見ていて、この世の問題には必ず差があるという
事をあまり気にしません
智だけ発達している人は、その逆で、物事の裏
まで見ることは得意ではない
ではどちらが優れているのかというと、智と慧の両方
円満でなければ、使い物にならないのです
もし慧だけ発達している人が何かを指導することと
なった場合
ただ参加している人と、懸命に努力した人を同じように
評価しますので、ただ参加している人の利益は、懸命に
努力した人の苦労で得られた事を理解しません
努力なんてしたい人がすればいい・・・それが自然で、しな
い人もまた自然
それはそれで老子みたいな思想でよろしいんでしょうが、
この世は、誰かの楽は、必ず誰かの努力ので釣り合う
ようになっている事を理解する、智がない
実は以前ある時期、私もこのような、慧だけ発達した状態
になっていました
その時には、何に努力したって、結局は同じ事だと思って
しまい、何にも夢中になる事は・・・いや下らんことには夢中
になっていたような気はしますが・・・・
この世で何を成すかという事は、魂にとっては何の価値も、
たしかにありません
しかしそれと何をしているか、何を積み重ねているかは
別問題で、これは魂にとって大きな問題なのです
智慧を授かるには努力以外にない事は、無量義経にも
ある通りです
努力無効なんて事は決してないんですよ