幸いにも正しい仏教の先生におあいし、導きを受けなければ、
どうして真実の仏教の教えを学び、阿弥陀仏の救いにあうこと
ができるでしょうか
決して、自分の考えで、真実の仏教の教えを乱してはならない
のです
そこで、今は亡き親鸞聖人がよく語って下された、耳の底に残る忘れられない御言葉を 少しでも書き残しておきたいと思います
これはひとえに親鸞聖人の教えを学び求める同志の不審をはらしたいからなのです
序文終わり
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正しい仏教の先生とは、どんな人をいうのか?
正しい仏教の先生とは、どんな人をいうのか?
創○の大先生だって、幸○の科学の大導師だって、はたまた何々宗大本山のなんたら僧正だって・・・と一体誰を正しい仏教の先生と思えばよいの?
と思う方は多いでしょう
なにしろ、これだけの宗派が入り乱れる日本ですから、一体誰を真の仏教の師とすれば良いかなんてのは至難の業です
そもそも真実の仏教の教えというものをどうやって知ったらいいのか?
これすら危ういものです
歎異抄においては、真の仏教とは他力本願の正しい教えの事です
ということは、他宗においては別の教えが正しいという事になります
つまり、真実の仏教は無数にあるということです
しかし、その根本となる法は一つであります
その法を守って、自在に教えを説く者を正しい仏教の先生といいます
また現在では、沢山あって混乱している教えを統一出来る方法として、光の理論があります
よく、師を求めるな!という人がいます
これは実に誤解されている言葉で、じゃあどうするんですか?といえば、自然に学べとか、自分の内なる声に従えといっている
これもつまりは、師を別に選んでいる訳で、それが自然だったり、自分だったりして、人でないだけです
それで、大体そういう思想が好きな方は、自分が一番偉い人が多く、人に教えを乞う事を喜ばしく思いません
自分が先生なのだ・・という言葉の響きは心地良いものですが、それで、法の全てを分かるはずもなく、中途半端な先生が右往左往するだけでしょう
確実に自分よりも意識の広い優秀な方がいる
これを素直に認めて、教えを請う
この心のない人は、阿弥陀仏の光を感じとる事が出来ません
そして、教えを請い続けていれば、法を知る人が如何に少ないかが分かって来ます
正しい仏教の師は本当に少ないと知るのです
自分の勝手な考えで・・・考えることは大変重要なことですが、考えるのは、真実に近づく為であって、独自のオリジナルな考えを創作することではありません
物語を創作するのは、それで結構なのですが、真実を追求する仏法においては
考える=自分の考えが修正されて、真実に近づく・・・となるのです
あ、ちょっと今日は長かったな~・・・