えっと、もうわかる人にはわかりましたかね?ww


と言う事で、前回の続きになります。

興味ある人、あと「あれ?これ違うんじゃね?」的な人もどうぞww


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上杉謙信


戦国武将の中でも、比較的人気の高い武将の一人ですかね?

自らを「毘沙門天の転生」と信じ、その戦幟にも「毘」の文字を入れていたエピソードは有名ですが、現代的に言うと「チト痛い人」だったかも知れません(苦笑)

武田・北条両氏との因縁は歴史をそんなに知らない人でも聞いた事はあるでしょう。

「川中島の合戦」にみられる、沈着冷静な戦術家の面ばかりが有名な方ですが、実は和歌や琵琶の才能にも秀でた文化人の側面も持ち合わせた武将でした。

春日山城で大遠征の準備中に急死しますが、遠征の相手は信長だったのか、それとも北条だったのか。

(NHKでは関東討伐説を押していますが、ロマンがないっすねww)


本多忠勝


武田家家臣・小杉左近曰くの


「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」


でも有名な、徳川家旗本の筆頭武将。

徳川四天王・十六神将の筆頭であり、五十を越える合戦に出陣しながらかすり傷一つ負わなかった逸話を残す勇将であり、信長にして「日の本の張飛」と言わしめました。

反面、関ヶ原の戦いで徳川方が勝利した後、大阪方についた真田昌幸・幸村親子の助命を家康に進言し、受け入れられる等、敵味方分け隔てない人心掌握を常とする、まさに「大将」だったとされる方です。

晩年、小刀で持ち物に名前を彫っていた際にうっかり指を切ってしまい「我が命運、もはやこれまで」と嘆いたそうですが、この時の傷こそ、彼が生涯唯一の傷だったとされています。


伊達政宗


幼少の頃の疱瘡で右目を失明、ついた異名が「独眼竜」

言わずと知れた、戦国末期から江戸初期にかけて奥羽を代表する武将だった政宗。

幼い頃より、その醜悪な容姿を嫌い、弟を立てようとする実母との壮絶なまでの遺恨は、後世においても様々な伝記、講談として語り継がれています。

朝鮮出兵の際、不必要なまでに自軍に華美な戦装束をあつらえ、京の都ではいつしか派手な装いを着こなす人を「伊達者」と呼ぶようになったのは有名な話。

一説には、この時政宗は朝鮮出兵の愚を見抜いており、自軍が派手好みの秀吉の本陣近くに配置され、苛烈を極めた前線から遠ざけようとしたのだと言われています。


明智光秀


清和源氏の支流に生まれたとされますが、実はこの辺の彼の幼少時代の記録は不確かなものが多く、様々な説があります。

元々は足利義昭の下にいましたが、後に義昭を見限り、信長の下へ向かいました。

資料を様々読むと、武将というよりは「事務官」としての才能に秀でた人物だったようで、織田家臣の中でも比較的重要なポストを歴任していたのは間違いないようです。

やはり彼を語る上で忘れてはならないのは「本能寺の変」ですが、謀反、家康による謀略、果ては精神異常説まで様々な諸説があります。

実は「本能寺の変」の信長の遺体の話、そしてその後の「山崎の戦い」での光秀の首の話も全てが「疑問符」の付くものばかり。

出生から最後まで、本当に謎の多い戦国武将の一人です。


今川義元


後述する武田信玄の義兄であり、清和源氏本流・河内源氏足利氏の傍流吉良氏の分家・・・それが今川家なんだそうです(苦笑)

歴史上、信長や秀吉など出生に秀でた血筋の無い武将が天下に近かった時代、その点からすれば彼が天下に届かなかったのは必然なのかも知れません。

信長台頭の前までは駿河・遠江・三河の三国を平定し「海道一の弓取り」と言われただけに、決して暗愚な武将では無かった事は確かなようです。

ゲーム等では寸胴短足なイメージで表現される事も多いのですが、桶狭間での見事なまでの負けっぷりが一人歩きしてしまったが故の悲しさなのかも知れませんね。


武田信玄


戦国時代を代表する武将の一人で、甲斐国守護大名。

彼の現代におけるイメージのほとんどは「甲陽軍鑑」による伝説的なエピソードによるものとされます。

実際は、仏門に深く根ざした家臣運営や、日本ではそれまで見られなかった金による経済活性、寺社政策での幅広い仏門への援助など、内政に秀でた武将だったと考えられています。

歴史では5度に渡る上杉謙信との「川中島の合戦」が代表的な戦として語られる事が多いですが、信玄が最もその身を砕いてあたったのは、自身の領地・信濃の平定だったろうと思います。

長い年月を信濃平定にかけすぎたが故、上洛を目指す頃には既に信玄の体はボロボロでした。

自らの死後、後を託した勝頼の代で武田家は滅亡しますが、家康が遺臣を保護したお陰で、江戸時代に入ると「甲陽軍鑑」の流行、そして「武田二十四将」の誕生など、その生涯を讃える流れが出来上がったのですね。


羽柴秀吉


尾張国愛知郡中村の百姓「木下弥右衛門・なか」の子として生まれたとされ、出自記述が正確なら彼こそ下克上の体現だと言えます。

個人的に好きな彼のエピソードに「墨俣一夜城」の話がありますが、この辺を含めて後世の創作に彩られた武将も珍しいかも知れません。

一般的には天下統一を成した天下人のイメージが強く「太閤さん」等と親しみを込めて呼ばれる方ですが、歴史上秀吉の行った数々の改革や政治手法は、比較的シンプルかつ残忍なものが多かったようですね。

若い頃は戦略家としての才能をフルに活かせた場面が多く語られますが、後世になればなるほど、その政治的な評価を下げてしまっている部分は否定出来ません。

(朝鮮出兵はその最たるものですね)





と・・・

こんな感じでOKかな?

とんとんさん(笑)