こんばんは、今日も今日とて元気です、そらしたです。






たとえば辞書を開いたとして、そこにあった言葉で文章を作ると言うのはとても面白いことだと思うのです。

電子辞書を買いました。それができなくなりました。

利便性と引き換えにするものは何でしょうか。ボクはそこに発想が含まれているように思います。

歩くことで出てくる発想、自然を見ることで出てくる発想。ボクにとってはそれは掬いあげるべきものであるような、そんな気がするのです。

それが例えば紙を使ったものだったり、それがたとえば木を使ったものだったり。

ボクにとってはそれはきっと子供であるということなのでしょう。大人になることと引き換えに子供である素直さだったりするのです。





もしテレパシーが使える世の中になるとどうなるのでしょう。

テレパシーにもいくつか種類がありますよね、声が頭の中で響いたり、文字が頭の中に浮かんだり。

そして誰からのテレパシーなのか、これが一番重要だと思うのです。

その理由はいくつかありますが、言いません。はい。

自分の考えていることが、実はみんなには筒抜けになっているのではないだろうかと思っていた時期はないでしょうか。

ボクにはあります。それはたしか中学校の教室のことでした。席がたぶん前のほう。

みんなは実は自分の考えていることを知っていて、自分にだけそれを秘密にしているんじゃないだろうか、とか。

みんなの頭の中ではいろんな言葉が行きかっていて、自分だけただ筒抜けだったりしてないかな、とか。

頭の中で言う言葉が実はみんなに聞こえていて、自分だけそれができるんじゃないかとか。

今思うとそんなことがあったら面白いですね、ボクは遠慮しますけど。







大人になりたいと思ったり、思わなかったり、ということがあります。

大人になっても今みたいに遊んでいたいなあとか、子供でありたいなあとか。

子どもと大人を両立できている人は少ないと思うのです。自分が見た中で多いのは大人になってしまった人と、子供を捨てきれないだけの大人。

できれば、ボクはそんな風になりたくないなあと。そう思いながらもきっとボクはそうなる道を選んでいるのでしょう。

子供を捨てきれない大人になってしまったら、きっとボクはそんなことに気づかないのでしょう。

いつまでもこの年代であれば、どれだけ楽なのでしょう。終わることのないネバーランド。

きっと子供でいることを檻の中で居るように思っている人は多いのだろうなあと。

自由になりたいという子供ほど、自分がどれだけ恵まれているのかを理解できていないのでしょう。

きっとそこは檻なんかじゃなくて、揺り籠のなかなんだろうなあと。