終戦は大分県別府市、終戦の
一年後、爆心地から約二キロの
広島市に移住した。

当時は日本全国、は食糧難、広島県、
長崎県の周囲は。

しかし、今のように、福島原発から
周囲10km、30Kmは危険地域だ
から非難しなさい。

そんなことは国も、住民も口にしなかった、
おそらく物理学者もいたはず、国を動かす
ような発言はなかった、

でもほとんどの人々は生き延びた、
中には被ばくが原因で原因不明の病で亡く
なられたかたおられますが、

今ほどの騒ぎに至らず、おそらく落とした国、
落とされた国も放射能について知らなかったのが
事実だろう。

当時の原発と現在のそれは威力が違うのだろうが。
あまりぴんと実感はない、現在のニュースに。

広島市は市中に7つの大きな川が海に向かって
流れている。一年後も川で撮った、シジミ、あさり、
魚などをみな食べていた。爆心地から10-30km以内の
市民は非難しなさいとおふれがでたら

市民は全員、市外に移転しなければならない。
逆に疎開していた生徒たちは市内に戻ってきた
終戦と同時に。

いまではつじつまが合わない。

僕の頭の鈍さは放射能のせいかもしれない。