
自分が日本人に対して残念だと思うのは、周りにある筈のちょっとした幸せですら自分で見つけることが出来ないことである(勿論、自分も例外ではない)。
前に、虹の村?とかいう詩を読んだことがある。ある時、バスから見えた虹がある村に足を下ろしていて、でもその村の誰もがその事に気付かないことに痺れを切らし、乗客全員で大声を出して呼びかけたのにも関わらず、結局村の誰一人としてその事を知る者はいなかったという話である(分かりづらくてすいません…)。
実は虹というのは同じものを誰もが見てる訳ではなく、見る場所や角度ごとに見えたり見えなかったりするのだそうだ。ましてや虹の足の近くに行くなんてことは不可能なわけで、そのことを幸せというものの儚さというか、幸せというものは、自分からは決して見えないものというイメージに使っている…ということなんだろう。
しかし、今の日本人はもっと酷い。まず最初にその虹が見えないのだ。昨日、自分が用事のため降り立った駅の周りにお天気雨が降った。その時、色こそ薄いものの、とても大きな虹が空に現れたのだ。それなのに、見たところ周りの大人たちは、下を見ていたり何処か他のところを見つめるばかりで、そのまま誰にも気づかれぬまま、その虹はゆっくりと姿を消していってしまった。
そりゃ子供の様にはしゃげとは言わないけれど、とにかく彼等は何かを見ているようで何も見えていないのかもしれない。良いスーツを着たり私服をどんなに華やかにしても、結局目の前にある虹一つ見つけられないのだから困ったものだ。自分もいずれそうなるのだろうか、大人になるというのはこんなにも寂しいことなのだろうか。