新聞記事には、小松島~和歌山航路の客船、南海丸が冬の荒海で沈没し
167名全員が亡くなる痛ましい事故から早50年たつとの報道、世界でも客船が沈没して全員が亡くなるのは、大変めずらしい事故でした。
徳島の海上交通の歩みを紹介しますと
昭和20年(1945年)前後は、徳島、小松島、日和佐~阪神航路は、小松島まで小さな客船で7時間前後かかっていたと思います。
その後、昭和30年代に入ると小松島~和歌山航路が時間短縮で、電車も含め
4~5時間で大阪まで行っていました。当時の南海丸には、両親に連れられ京都の行き来に乗りました。今思うと小さな客船でした。その後一回り大きな客船
須磨丸になった記憶があります。
その後、モータリーゼネレイションの発達と、共に徳島、小松島~阪神、和歌山間も大型フェリーにとってかわり、鳴門~フェリー 淡路 ~フェリー明石、須磨
西宮のコースも利用され、その後徳島~大阪港の高速船の出現で人の移動も大阪まで2時間少々と大変便利になりました。その後鳴門大橋、明石大橋と順次開通し今は、自動車、高速バスが幅広く利用されています。フェリーの運航は悲しいかな一社のみにな
つています。船旅も情緒があっていいものですがね今はありませんが船のテープの別れはドラマチックでした。
本題にもどります。
子供のころ両親に連れられ、阪神、和歌山航路よく乗りましたが、南海丸が沈没
した、ぬ島あたりは天候が良い日でもよく揺れていました、高速船時代もこの周辺に来るとバウンドしながら航行していました。
全員死亡にも原因があり、冬の荒海の場合、甲板に波しぶきが入ってくるのでそれを防ぐため開口部にシートを張る訳ですそれが全員死亡につながったとそのころは云われいぇいました。
当時私の叔母のだんなさん(日和佐町出身)が南海丸を造船した○○造船の管理職だったころ、あの船は絶対沈まないと豪語していました。
私も何度も怖い目にあいました。荒海で神戸をでて途中で神戸まで引き返したこともありました。基本的に今思うと船が小さすぎました。
亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます。しかし月日のたつのは早いもので早50年ですか、物思いにふける冬の寒い一日です。