表現をするということ。 | Now or Then

Now or Then

long distance.

$Sin⇔goodbye yesterday,hello tomorrow





わたしは昔から自分に絵を描いている。


多くの絵を書く人や、

多くの表現者がそうであるように

わたしも自分に絵を描いている。






それに、わたしはすべての表現を、オナニズムだと考えている。

だがいつしかその行為が形を変えて、

どんどん個人のものではなくなっていく。

そして、

その行為を他人と交差することによって、(共有)という形が誕生すると、

そこには(責任)という感情もついてくる。




わたしはこの(共有)という言葉に、実は昔から違和感を感じている。


(共有)はすごく軟らかくて、とても簡単に形を変えてしまう。

つまり、それが(共有)の良い部分であり、脆い部分でもあると思う。

誤解がなければよいのだけれど、良い悪いではない。

違和感。



わたしはこんな職業の中で生きているのだから、

こういった言葉の書き方は微妙かもしれない。



なんというか、きっとわたしは「目的が手段」になっていくことが苦手なんだと思う。

そう。

わたしはそれが苦手なのだ(そうならないように、努力はしている)



わたしの根にある考え方は、先験的人生。


慣れや習慣から生まれる「反復」からの無意識選別よりも、

先験的な反応からの無意識選別のほうが、

きっとわたしは好きなのだと思う。




だから、

わたしは出会いとは自然と、くるべき時にくるものだと考えている。



人は出会うべきタイミングに出会うし、そこを無理に繋げることはしない。


つまり、あまり出会いに頑張らない。


でも、この出会いという交差にも

いつの間にか、人は慣れる。




話が長くなったけど、

つまり「生きていくために表現をする」はわたしの中では違う。



これも誤解がなければよいのだけれど、

決してその言葉の「対」を否定しているわけではない。




わたしにはそのスタイルが合わない、というだけ。



なので、わたしは共有する為の作品は作っていない。


完全なオナニズム。



しかし、それでも人は交差する。


とても自然に、

とても先験的に。



それに対しては、わたしは責任がある。

そんな交差の中で、わたしの作品が良いと言ってくれる人には、

できる限りわたしなりの責任をとりたい。


そう考えて今まで生きてきた。





つい先日注文下さった方も、そんな交差の中で生まれた関係。



数年前に、わたしは彼に絵を販売した。


彼はお店をしていて、わたしはそこに以前週に一度通っていた。

そこではとびっきり美味しい珈琲が飲めたし、また美味しいパンも買えた。




彼とはとにかく好み、思考がとても似ていた。

好きな音楽、ファッション、料理、アート。

驚くぐらい好みが同じだった。



ある日、わたしは彼に絵が欲しいと言われた。


わたしは当時、ちょうど絵の販売についてはすこぶる嫌気がさしてたほうだったので、

お店での販売は一切していなかった。



そんな時だったから、お店にはほとんど絵はなく、

彼を自宅に連れてきて、

気に入ったものがもしあれば、どうぞと言った。



彼はその中から3枚選び、持って帰った。



その次の週に、わたしが彼のお店に行くと、

わたしの絵が店内に飾られていた。



わたしは顔が真っ赤になり、唖然としてしまった。



彼のお店は雑誌にも良くのるし、お客さんも多い。


そんなお店に、よくわからない人の絵があるのだ。


彼が笑われたりしないか、もう罪悪感でいっぱいになった。



呆然と、まだ店内にも入らずに店の入り口から店内を見ていたわたしを見て、彼がでてきた。


「一昨日、美大関係のお客さんが来て、これは誰の絵だって聞いてたよ」


彼は笑いながら言った。


その顔を見て、あぁそうだったと我に返った。


そう、それで良かったのだ。


交差とは、それで良いのだ。



その彼にはっとさせられて

結局、あれから7年以上経ったが、わたしは今も無所属でいる。


そして、そういった関係性で今も続いてる間の方々に支えられて、

今日もわたしはここに立っていられる。





いつか、自然に交差する出会いの中で

ここで出会った方と笑えたらよいなと、今日思いました。