カチャンカチャン・・・・・。
ウンスは先程から何の音かと周囲を見渡したが、見えるのは果てしなく広がる寂しい草原と点々と生えている黄色い野花だけだった。
――・・・ここは?
見た事も無い場所と、自然の中には不似合いな程の機械的な音。
しかし、ふと草原の端を見るとそこには大きな木があり誰かが座っている。
慌て走り近付いたが、座っている男性は此方に気付かずずっと誰も立ち入っていないただ広いだけの鬱蒼(うっそう)とした森とそこから空へと繋がる境目をぼんやりと眺めていた。
「あの、すみません。ここは何処ですか?」
・・・確か夜勤が終わり自分の家に帰り寝ていた筈。
こんな広々とした森など江南には無いし、ソウル市にも無い。
知らない間に誰かに攫われたのだろうか?
それにしては、攫った人もいないのはおかしい。
「あの、すみません・・・」
「・・・・・」
しかしウンスの言葉など聞こえないのか、その男性は遠くを見つめ振り向こうともしなかった。
「あのー!」
「・・・」
「ここはどこですかっ?!」
「・・・」
――何?
聞こえないの?
それともわざと無視してる?
ウンスはぴくりとも動かない男性を睨んでいたが、ふと遠くの草むらで野草を食べている馬を見つけ再び男性に振り向いた。
「あれは貴方の馬?」
やはり男は答えない。
――何なの、本当に・・・ここはどこなのよ?
険しい眼差しを向けてじっくり観察すると時代錯誤な格好をしており、顔も少なからず汚れてもいる。
「・・・もしかしてどこかで撮影だったのかしら?」
役に入っている最中?
ウンスは急いでその場を離れると、次に馬へと足を向けた。
すると、その馬は動かしていた口を止めウンスへと顔を向けてくる。
「あら、お馬さんは反応してくれるのね。ねぇ、誰かいないかしら?スタッフでも関係者でもいいから・・・」
だが食事を止め草むらから出た馬は、ウンスの傍に来て小さく首を振りながら服に鼻を擦り寄せてきた為慌てて距離を取った。
だが何故か馬は尚更近付こうと後ろを付いて来てしまう。
「ええっ、付いて来ないで・・・は?私パジャマなの?!」
走りながら気付いた自分の格好はパジャマ姿でそれにも驚き声を上げた。
こんな姿で外に出るなんて人生で1度も無い。
「これは夢よ・・っ、きゃー!」
つい止まったウンスの後ろ髪を馬が噛み悲鳴を上げていると、
「チュホン、何をしている?」
今まで返事もしなかった木の傍で座っている男性が声を出した。
「貴方の馬なの?止めさせてよ!痛い!」
「腹がいっぱいならテマンの所に行け」
「はあ?ちょっ、・・・・・と?」
男性に声を掛けられた馬はウンスから離れると小さな丘をゆっくりと登って行き、足音と共に消えてしまった。
「・・・・・・・え?」
呆然と立ち竦むウンスを無視し、男性は再び正面を向いてしまう。
――カチャンカチャン・・・。
またこの音。
「ねえ、聞こえないの?ここは何処なの?!」
何故自分がパジャマ姿なのか?
何故知らない場所に来ているのか?
少しも思い当たらない。
「・・・私、夢遊病だった?」
ガックリと項垂れ呟くウンスの声に当然の様に男性は何も返してはくれない。
こちらを見もしないあの男性と話が出来ないのなら、馬が向かった方に行ってみようか?
ウンスは踵を返して足を進めた――。
「・・・貴女は何処を旅しているのか?」
男性の呟きは離れたウンスには届かず、
振り返る事なく真っ直ぐ歩き続けて行った――。
「・・・・――っは!!」
目を開け慌てて起き上がったウンスは自分の姿を確認すると、パジャマ姿でやはり見慣れた自分の部屋のベッドの上だった。
だが、足裏が汚れている訳でもなく、髪には馬に噛まれた跡も無かった。
「やっぱり夢・・・寝る前に見たドラマってあんなだったかな?」
時代劇ドラマは決まったものしか見ないし、ましてや今流行りの爽やか学園恋愛など興味が無い為に記憶に残ってもいない。
・・・なのに、何故あんなものを見たのか?
暫く考えていたウンスだったが聞こえた小鳥の囀(さえず)りで我に返り、
目覚まし時計を確認し大急ぎで浴室に飛び込んだ――。
「・・・今思えば、最初はモノクロだった気がするわ」
などと気の抜けた声を出てしまう。
この場所に来るのが4度目にもなると、
あまり恐怖や不安などが薄く感じたからだろうとウンスは納得していた。
毎回同じ光景で少し違うとしたらその場所に馬がいるかいないかの違いだったが、馬がいる場合は何故かウンスに近付いて来るのでこれ以上は近付くなと木に隠れながら声を上げるしかなかった。
少し経つと馬も諦め何時もの様に草を食べに消えてしまう。
「それにしても、馬をずっと野放しって大丈夫なの?ねぇ、聞いてるー?」
聞こえてもいない男性に少しでも届けと時々大声を出すがやはり何の反応もしてくれず、スタッフ1人もいない状況では結局ウンスは丘に座り少し離れた動かない男性を見ているしかなかった。
しかし何回目かで色が付くと、
彼の髪色や着ている鎧が鮮明に見えて来る。
「意外と髪質良いわね・・・。
その前に彼は何なの?俳優?モデル?アイドル・・・は無いか」
周囲を見て何処にも撮影隊がいないのだから現在進行形で撮影で無いのはわかった。
だが、マネージャーが1人もいないのだからこの男性が一体何者なのかも全く今だにわからない。
「・・・うーん、でも見た事はある・・・かも?」
――わかんないけど。
テレビの何かで出ていた様な気もする。
だとしたら、やっぱり俳優だろうか?
名前さえわかれば検索で出て来るかもしれないが、その名前も出て来ないのだからどうしようもない。
自分の地味な人生と流行りの事に目を向けていなかったつまらない生活に肩を落としてしまう。
昔から自分が優秀だと認識していた。
有名な医者になりたかった。
大学に入り、細胞研究にのめり込み始めると国立大の理研に入り研究員も良いかと考えてもいた。
だが、血圧が高い父親が検査入院をした事で自分の夢を思い出し、研究棟から離れ本来の目標へと戻った。
・・・それでも、今は美容整形外科に移った訳だけど。
厳しい現実を突き付けられ、1人の女がどれだけ上がっても・・・結局は誰かに追い越されている。
誰よりも頑張っているつもりだった。
だけど。
――『それよりもユ先生、恋人との進展は無いのですか?』
――無いわよ。そんなもの。
あからさまに女性の幸せに背中を向けているとでも言いたげな医師の言葉に、喉までせり上った罵詈雑言を飲み込んだ。
逃げた訳じゃない。
自分がやりやすい所に移っただけよ。
・・・その言葉も飲み込んだのだが。
「・・・はぁ。
それにしても、よくこんな長い時間ずっと同じ場所にいられるわね。
・・・あら?お馬さんおかえりなさい」
――でもこれ以上は寄らないでね。
ウンスが手を出すと言葉を理解したのか、丘を下りて来た馬はウンスの少し離れた所で草に鼻を突っ込みまた口を動かし始める。
「また食べるの?その前に貴方のご主人様のご飯でも持って来たら?あの人頬が痩けてきたわよ。
あれじゃドラマ始まる前に栄養失調になるんじゃないかしら?それとも役作りなの?」
すると、頭を上げた馬はウンスの言葉が終わると同時に今帰って来た場所に再び上がって行ってしまった。
「ご飯取りに行ったとか?まさかねぇ・・・お?」
自分の周囲の空気が歪むのを感じ、
目覚めるのかと座っている男性を見ていると・・・。
「・・・某(なにがし)は、ここにいます」
そう、声が聞こえた。
「・・・某、て何?」
ウンスは首を傾げていたが、
そのまま消えていった。
「大護軍!く、食い物をっ・・・あれ?」
テマンが慌てて包みを抱え走って来たが、ヨンは何時も通りに同じ場所に座っている。
「チュホンが急いで走って来たから、倒れたのかと思ったけど違うみたいだ・・・」
前よりは束ね落ち着いた髪を何時もの様に雑に掻き、テマンは不思議そうにチュホンと座っているヨンを交互に見るのだった――。
「調べました!彼の名前は“チェヨン”であり、子役から活躍し数年前にドラマでイケメン俳優の仲間入りを果たした俳優・・・ふーん、30歳、私より年下か」
ウンスはパソコン画面を見つめながら、確かにこの顔だったとパチンと小さく指を鳴らした。
目覚めた後、
俳優の写真を色々探し似た顔はないかとパソコンを眺め、時間を費やすかと悩んだが意外とあっさり見つけた喜びに小さく拳を握り締める。
「・・・何何?近々、始まるドラマのファンミーティングイベントを開催?場所はコエックスの展示場ホール。やっぱりドラマの撮影だったのね」
うんうんと頷いたウンスはスマホにイベント情報をダウンロードすると、
早速イベント観覧申し込みボタンを押したのだった――。
「久しぶりに来た気がするわ」
大型モールのコエックスでは芸能人のイベントもだが、時々学会や国内外からの最新医療機器を展示するイベント等も開催されウンスとしては慣れた場所で2階に設置された観客席へと向かって行く。
イベント観覧申し込みをしたウンスだったが、それは2次のギャラリー席で既に1階のロビーや最前列などは埋まっていた。
タッチ会やサイン会などは興味が無い為、観覧のみを申し込み辛うじて端の席を取る事が出来たのだった。
「ん?」
よく見ると観覧席にいる客の手には何かタオルやポスターなどが握られており、しかも彼だけでは無いのか違う俳優の物まである。
「沢山来るんだ。・・・・・・へー」
しかし、実はどの俳優の名前もあまり知らない。
大学生時代身の回りの服だけは気を付けていたが、流行りの芸能や歌手などには目が向かず入れ替わり新しい人達が現れるとしか認識していなかった。
あれからよく買い物などに行くとあの男のポスターなどや映像が流れていて実は身近に流れていたのだと今更知り、そんな自分が恥ずかしかった。
指定席に座ったウンスは、隣りの客の手元のぬいぐるみを思わず凝視してしまい険しい眼差しを返されてしまう。
すみませんと謝罪し挙動不審な自分に羞恥しながらも、パンフレットに目を戻した途端――。
突然、
悲鳴にも似た観客の甲高い声に驚き1階ステージを見下ろした。
1階ステージ上に立つ俳優陣達は奇声にも似た歓声を浴びながら客席に向け手を振っている。
そして、遠いながらも2階席にも顔を上げ爽やかな笑顔でこちらに手を振りだした。
・・・あの人・・・よね?
やはり芸能人だからか大きくスラリとした体躯は一般人の中にいれば逆に目立つ程に華やかで目を引くものだった。
顔もスタイルも良い俳優陣の中で一際背が高い男性の顔を2階ギャラリーからウンスは凝視したが、ふと首を傾げてしまう。
確かに似てはいる。
だが、どうにも違和感があると思ったのは変だろうか?
あれが役作りだとしたら、本当に素晴らしい俳優だと思うのだが・・・。
「顔は確かに彼なんだけどなぁ、なぁんか少し違う様な・・・。あ、あの、すみません」
「はい?」
突然声を掛けられた隣りの女性は邪魔しないでとばかりに眉を顰めてきた。
「あの、1番背の高い人・・・チェさん?あの人に兄弟とかいます?男性で・・・」
「何なの?いきなり。いないわよ、彼一人っ子だもの。あと邪魔しないで」
「す、すみません」
ウンスは再び謝り、女性は持ってるポスターをステージに向け振り始め、どうやらあのチェヨンのファンらしく大声で名前を呼んでいる。
ふと。
彼は2階ギャラリーに顔を向け、
こちらを見た。
ウンスもまた見上げた男の顔を瞬きもせずに見返す。
「きゃー!こっちを見たわ!」
数人の女性達が更に興奮気味に手を振りあげ、声を上げた。
ウンスは再び隣を見てしまい、数秒でその男もまた視線を違う方へと向け手を振り始めている。
・・・・・・似ている様で似ていない。
興奮気味に歓声を上げる観覧席の中でウンスは1人黙ってしまうのだった――。

