happiness
日曜日は、4つ上の先輩と、7つ上の先輩と3人による「相対的若手会」メンバーで、
SFO近くまで打ちっぱなしに行って来ました。
ゴルフクラブを握ったのは、このまえ3つ上の先輩とそのご友人と3人でPalo Altoの
コースに出たときぶりなので、本当に久しぶりでした。
あまりにも久しぶりすぎて、ドライバーが全然打てなくて、
ゴツンゴツンやってたら、見かねた7つ上の先輩が指導してくれました。
すると、その指導を遠くから見ていた、たまたま同じ打ちっぱなした来ていた
16年上のもう先輩と呼ぶこともはばかられる方が近づいてきて、
さらに丁寧に指導してくれました。
おかげですっかり忘れていた基本的な打ち姿勢なんかを思い出すことができ、
来週のCEOカップに備えることができたと思います。
あたしね、決してあんまり上手ではないけど、
ボールが横にそれないので、OBは全然ないので、どんなに悪くても
140には収まるんだよね。
まぁ、140もそりゃ全然ダメなんだけどさ。苦笑。
そのあとは、ダウンタウンに帰ってきて、3人でお食事。
アルコールは、ワインとビールしかおいてないお店なので、私はまずはアイスティー。
われながら保守的になったものです。汗。
この三人で話をすると、たいてい東京の銀行と今働いてる米銀の働き方の比較になるんだよね。
とくに、7つ上の先輩は、
「日本の銀行は過剰品質・過剰サービス」
と主張する方。この主張は珍しいものではないかもしれないけど、
内部の人間でなかなか主張できるものでもないよね。
そこはやっぱり、社会が銀行に求めているレベルが日本と外国で違う、
という話になるわけだけどね。
そしたらちょっとずつ、お客様に過剰なサービスの質を下げることを許容してもらわないといけないし、それは可能だ、というのがその先輩の主張なわけだよね。
それはね、実は一部賛成でね。
ていうのは、全部のサービスの質を下げろっていうわけじゃないのね。
それは短期的な収益にしかつながらないと思うから。
だけど、本当にお客様が欲しているサービスの質なのか、そこに関わらず、
勝手に銀行側が、金融庁とマスコミの方だけに目を向けて、あるいはプライドのために
過剰なサービスや品質を提供しているのではないのか、ってことだよね。
そんなサービスや品質なのであれば、要らないよね。
もっとお客様が本当に望んでいる別のサービスや品質に投資すべきだよね。
それは当たり前かもしれないけど、これがなかなか難しい。
方法も難しい。
それからね、
幸せとは何か
という話になってね。
そしたら、以前に2人は
「比較幸福論」
という主張を語り合ったと言うのね。
その比較幸福論っていうのは、
たとえば人は何か辛いことがあったとき、「でも、自分は(他の人に比べて)こんなに恵まれている」と、自分を励まそうとする。
このとき、誰かと比較して自分が幸せであることを確かめることで、自分を前に進めようとしている。
つまり、極端な言い方をすると、「人はいつでも自分のまわりにエタ・ヒニンを探し出そうとしているし、必要としている。そうすることで、自分の幸せを確認している」
という主張らしいのね。
私はスーパー理想主義者なので、そんな考え方はあまりに悲しすぎて
否定したかったんだけど、残念ながら完全に否定することはできないと思うのね。
それは、考え方によると思うし、相対的なものだと思うし、ものの言い方だとも思うのだけれど。
たとえば資本主義のいいところって、価値基準がわかりやすいんだよね、
誰にも一目でわかる。比較がしやすい。だから好まれる。
これ、みんなが比較をしたいってことだよね。みんな誰かと比べたいんだよ。
比べて、自分が勝るために、がんばるわけだよね。
そうやってみんなをがんばらせるのも資本主義なわけだよね。
だけどそもそも先天的な理由からその競争に参加できない人たちや、
先天的な能力の限界から競争に勝ち残れない人たちは、
資本主義の恩恵にあずかれずに極端な話のたれ死ぬことは許されるのか?
そしたらね、そういう倫理観って言うのは、私たちがそのように教育されているから
そう感じるのであって、なんの教育もされていない人たちはそんなのなんとも思わないよ。
ってその先輩は言うのね。
だからあたし、
じゃぁ、教育すればいいんです!
って言ったの。
そしたら、
そうだね、教育は大事だね。
って言ってくれて、そっからアフリカで教育を普及・確立させることの難しさや、
実際何が難しいのか、日本の明治期と比べてどうか、なんて話が続いたんだけど。
でも倫理観って言うのも、時代や場所によって全然違うものだからね。
文化にもよるんだろうし、一概に「これが唯一絶対に正しい倫理観です!」なんて
教育という名の下に押し付けるのは危険な考え方だね。
まるでアメリカみたいになっちゃう。あー、難しい。
だけど、そういう「自分はあいつより幸せ」みたいな比較は、自分の愛する家族や親族に
対しては行わない、という話にもなったらしいんだけどね。
でも、それって必ずしも家族や親族であれば自動的にそうなるとも限らなくて、
家族や親族であっても、そういう風に思ってしまうかもしれないし。
逆に言うと、やっぱりそれって家族だとかに関わらず、自分の思いで、
そういう比較の対象にしない人を増やしていけると思うんだよね。
博愛。たとえばマザーテレサのように。
そんで幸せってのはやっぱり難しいよね。
お父さんがいなくなってしまって、本当にそれはよく考えてしまうよ。
お父さんはいつも
「セイコの好きなようにすればいい。」
って言ってくれる人だった。
そして私は本当に自分の好きなようにやってきたと思う。
だけど、それが正しかったのか、良かったのか、今更悩むことになってしまった。
みんなは「好きなことやってる娘の姿を見て、お父さんは幸せだったと思う」って
言ってくれるし、そういってもらえるのはとてもうれしいけど。。。
これからどう生きていくのが自分にとって一番幸せなのか。
はぁ。答え出ないなぁ。
アイスティーのあとは、ハウスワインの白をグラス一杯だけ飲んだんだけど、
もうそれだけでいい気分になっちゃって、
グラスがアメリカサイズだからなのか、運動のあとで疲れてたからなのか、
アメリカに来て飲む頻度がすっかり減ったからなのか、年のせいか。。。
4つ目の理由でないことを祈る。笑
SFO近くまで打ちっぱなしに行って来ました。
ゴルフクラブを握ったのは、このまえ3つ上の先輩とそのご友人と3人でPalo Altoの
コースに出たときぶりなので、本当に久しぶりでした。
あまりにも久しぶりすぎて、ドライバーが全然打てなくて、
ゴツンゴツンやってたら、見かねた7つ上の先輩が指導してくれました。
すると、その指導を遠くから見ていた、たまたま同じ打ちっぱなした来ていた
16年上のもう先輩と呼ぶこともはばかられる方が近づいてきて、
さらに丁寧に指導してくれました。
おかげですっかり忘れていた基本的な打ち姿勢なんかを思い出すことができ、
来週のCEOカップに備えることができたと思います。
あたしね、決してあんまり上手ではないけど、
ボールが横にそれないので、OBは全然ないので、どんなに悪くても
140には収まるんだよね。
まぁ、140もそりゃ全然ダメなんだけどさ。苦笑。
そのあとは、ダウンタウンに帰ってきて、3人でお食事。
アルコールは、ワインとビールしかおいてないお店なので、私はまずはアイスティー。
われながら保守的になったものです。汗。
この三人で話をすると、たいてい東京の銀行と今働いてる米銀の働き方の比較になるんだよね。
とくに、7つ上の先輩は、
「日本の銀行は過剰品質・過剰サービス」
と主張する方。この主張は珍しいものではないかもしれないけど、
内部の人間でなかなか主張できるものでもないよね。
そこはやっぱり、社会が銀行に求めているレベルが日本と外国で違う、
という話になるわけだけどね。
そしたらちょっとずつ、お客様に過剰なサービスの質を下げることを許容してもらわないといけないし、それは可能だ、というのがその先輩の主張なわけだよね。
それはね、実は一部賛成でね。
ていうのは、全部のサービスの質を下げろっていうわけじゃないのね。
それは短期的な収益にしかつながらないと思うから。
だけど、本当にお客様が欲しているサービスの質なのか、そこに関わらず、
勝手に銀行側が、金融庁とマスコミの方だけに目を向けて、あるいはプライドのために
過剰なサービスや品質を提供しているのではないのか、ってことだよね。
そんなサービスや品質なのであれば、要らないよね。
もっとお客様が本当に望んでいる別のサービスや品質に投資すべきだよね。
それは当たり前かもしれないけど、これがなかなか難しい。
方法も難しい。
それからね、
幸せとは何か
という話になってね。
そしたら、以前に2人は
「比較幸福論」
という主張を語り合ったと言うのね。
その比較幸福論っていうのは、
たとえば人は何か辛いことがあったとき、「でも、自分は(他の人に比べて)こんなに恵まれている」と、自分を励まそうとする。
このとき、誰かと比較して自分が幸せであることを確かめることで、自分を前に進めようとしている。
つまり、極端な言い方をすると、「人はいつでも自分のまわりにエタ・ヒニンを探し出そうとしているし、必要としている。そうすることで、自分の幸せを確認している」
という主張らしいのね。
私はスーパー理想主義者なので、そんな考え方はあまりに悲しすぎて
否定したかったんだけど、残念ながら完全に否定することはできないと思うのね。
それは、考え方によると思うし、相対的なものだと思うし、ものの言い方だとも思うのだけれど。
たとえば資本主義のいいところって、価値基準がわかりやすいんだよね、
誰にも一目でわかる。比較がしやすい。だから好まれる。
これ、みんなが比較をしたいってことだよね。みんな誰かと比べたいんだよ。
比べて、自分が勝るために、がんばるわけだよね。
そうやってみんなをがんばらせるのも資本主義なわけだよね。
だけどそもそも先天的な理由からその競争に参加できない人たちや、
先天的な能力の限界から競争に勝ち残れない人たちは、
資本主義の恩恵にあずかれずに極端な話のたれ死ぬことは許されるのか?
そしたらね、そういう倫理観って言うのは、私たちがそのように教育されているから
そう感じるのであって、なんの教育もされていない人たちはそんなのなんとも思わないよ。
ってその先輩は言うのね。
だからあたし、
じゃぁ、教育すればいいんです!
って言ったの。
そしたら、
そうだね、教育は大事だね。
って言ってくれて、そっからアフリカで教育を普及・確立させることの難しさや、
実際何が難しいのか、日本の明治期と比べてどうか、なんて話が続いたんだけど。
でも倫理観って言うのも、時代や場所によって全然違うものだからね。
文化にもよるんだろうし、一概に「これが唯一絶対に正しい倫理観です!」なんて
教育という名の下に押し付けるのは危険な考え方だね。
まるでアメリカみたいになっちゃう。あー、難しい。
だけど、そういう「自分はあいつより幸せ」みたいな比較は、自分の愛する家族や親族に
対しては行わない、という話にもなったらしいんだけどね。
でも、それって必ずしも家族や親族であれば自動的にそうなるとも限らなくて、
家族や親族であっても、そういう風に思ってしまうかもしれないし。
逆に言うと、やっぱりそれって家族だとかに関わらず、自分の思いで、
そういう比較の対象にしない人を増やしていけると思うんだよね。
博愛。たとえばマザーテレサのように。
そんで幸せってのはやっぱり難しいよね。
お父さんがいなくなってしまって、本当にそれはよく考えてしまうよ。
お父さんはいつも
「セイコの好きなようにすればいい。」
って言ってくれる人だった。
そして私は本当に自分の好きなようにやってきたと思う。
だけど、それが正しかったのか、良かったのか、今更悩むことになってしまった。
みんなは「好きなことやってる娘の姿を見て、お父さんは幸せだったと思う」って
言ってくれるし、そういってもらえるのはとてもうれしいけど。。。
これからどう生きていくのが自分にとって一番幸せなのか。
はぁ。答え出ないなぁ。
アイスティーのあとは、ハウスワインの白をグラス一杯だけ飲んだんだけど、
もうそれだけでいい気分になっちゃって、
グラスがアメリカサイズだからなのか、運動のあとで疲れてたからなのか、
アメリカに来て飲む頻度がすっかり減ったからなのか、年のせいか。。。
4つ目の理由でないことを祈る。笑