フィリップ・ジンバルド -普通の人がどうやって怪物や英雄に変貌するか1


フィリップ・ジンバルド -普通の人がどうやって怪物や英雄に変貌するか2



どうして人間が、これ程までの残虐的な行為を行えるようになるのか?

バッド アップルだったから?

極悪非道な人種であったから?

でも戦争に行く前は善良な一般市民として普通に生活していたと思うのです。どうしても納得ができなかったので、そのメカニズムを追ってきました。

イスラエル軍のパレスチナ人虐殺
大日本帝国軍の中国人虐殺
アメリカ軍のベトナム人虐殺
オウム真理教信者の一般市民無差別テロ殺人
アメリカ軍のイラク人拷問・虐殺

と、ランダムにピックアップして紹介してきましたが、このような残虐的な行為は、世界中で、いつの時代でも枚挙にいとまがないです。

キーワードが見えてきました。洗脳・・・誰にでも起こりえる事だというのです。

フィリップ・ジンバルド博士は言います。腐ったりんごではなくて、腐っていたのは樽の方でしょう。人ではなくシステムが悪いと。


ここまでみてきて、共通点が見えてきました。最終的に実行に移すまでになった人間は、日常生活での通常の精神状態とは全く別の洗脳状態に陥っていて、相手は同じ人間ではなく、家畜、家畜以下と認識しているのです。当然、相手の恐怖や痛みや苦しみを認識する想像力が完全に欠如する状態にまでなっています。マル激トークにとても参考になる映画の紹介があります。「5金スペシャル 映画は歴史的悲劇をどう描いたのか」

けれども、その状態に至るまでは、社会的、心理的なプロセスがあるのです。


以下が、上の動画内での、フィリップ・ジンバルド博士の説明です。

悪の滑りやすい坂に油を塗る 7つの社会的プロセス
7 Social Processes that Grease the Slippery Slope of Evil

1.考えもなく最初の小さなステップを踏むこと
2.他人の人間性を剥ぎ取る
3.自身の没個性化を測る(容姿を変えて匿名になる)
4.個人の責任を曖昧にする
5.権限へ盲目的に服従する
6.グループの基準には無批判に従う
7.怠慢や無関心によって受動的に悪を許容する


それは初めてやよく知らない状況で起こるのです。
あなたの習慣的反応パターンが働きません。
あなたの個性と道徳が遊離します。

普通の善良な人を変容させるのに、薬なんて必要ではないのです。
社会的、心理的なプロセスで充分なのです。

スタンフォード実験で得られた教訓はすべて軍事活動にあてはまります。
それは虐待への処方箋です。

個人のみに焦点を置いた医学的モデルからは離れていきます。
状況やシステムが病気の媒介となる事を認識しました。
公衆衛生モデルに向かいます。

いじめは病気です。 偏見は病気です。 暴力は病気です。

宗教裁判からずっと私たちは個人のレベルで問題に対処してきました。うまくいきませんでしたね。

アレクサンドル・ソルジェニーツィンが善悪の境界線は、あらゆる人間の心の中にあるといいます。つまり境界線は外にはないのです。それはあなたが決めなくてはならないこと。個人的なものです。

悪(EVIL)の心理学的な定義は「力の行使」です。パワーの問題なのです。人々を故意に精神的に傷つけ、身体的に傷つけ、人々やアイディアを致命的に破壊します。そして人道に反する罪を犯します。



私の考察に過ぎませんが、7つのプロセスを踏む段階で1~4を経ると、相当悪の坂を転がり落ちやすくなるのでしょう。

それでも同じ状況下においても、かろうじて踏みとどまる者もいます。キーポイントは5~7の性質だと思うのです。日常生活でもそういう性質があまり強くなかったのかもしれません。

善悪の境界線は、私の中に、あなたの中にある。誰もが善悪を内包しているということ。

それは恐ろしい悪魔が心の中に巣くって隠れていて、ある時目覚めて突然出てくるといった、分けられたイメージではなく、なんていうか、私たち人間は、グラディエーションをもった、天使と悪魔が同一化した存在なのかもしれません。いつでも。誰でも。

あ~、私にコンピューターグラフィックとITの才能があったらこんなスクロールバーを作ってみたいな。

例えば、右と左(上下でもいいんですけど)に動くスクロールバーがあって、一方が悪魔(モンスター・般若)度 100%、もう一方は天使(英雄・仏様)度100% っていう感じ。そのスクロールバーを動かすと、顔が、悪魔の顔←→ニュートラルな顔←→天使の顔に変わる。

私は今、この出来事に対して、善と悪の境界線をここに引いて、行動しました。

さて、ここはどこかな? おっと、悪魔度29% いつのまにかこんなところまで来ていたのか、自分では気がつかなかった!そういえば顔も悪魔顔になってきている。みたいな感じ。

なんてね。こんなレベルの私には実際の事はわかりませんが、生きるというのは、究極、目の前で起こる一つ一つの出来事に善悪の境界線を自分はどこに引くか?という、あくまでも静かで個人的なものなのかもしれない。とふと思いました。英雄になるとか、功績を残すとか、利益があるとか不利益があるとか考えて境界線の場所を決めるような感じではなくて・・・。

その境界線がどこにあったかという客観的な判断は、死んで神の視点に戻れてからじゃないとわからないと思うのです。生きているうちでは、あまりにも生きていくための言い訳、恐怖やエゴがありすぎて客観的には判断することは不可能だと思うし。


ヒトラーとかアイヒマンとか麻原とか、極端に悪の坂道を転げ落ちたと思う人をみて思うのは、劣等感(劣等感の裏返しである優越感・虚栄心等を含む)が強い性格は、さらに坂道に潤滑油を供給することになるのかなと思いました。