さらに19世紀半ばに、この方式を量産楽器に適用し、数学的にすべての音の間隔を同じにしてしまったのが現代日本の音楽を支配している『十二平均律』である。(音楽学生の諸君には気づいて欲しいのだが、バッハが気に入った「ウェル・テンペラメント」と今日言う十二平均律とは少し違うのだ)勿論、十二平均律の楽器は、大量生産といえどもミーントーンなどそれ以前の調律法を加味して作られていたのだが、次第にミーントーンは衰退して行った。しかし優れた現代のピアノの調律師は、事実上色々な音律が持つズレをうまく取り入れて作業しているし、アメリカや西欧の優れたピアノメーカーは、少しでも美しい音をと努力しているように見える。
つまり、現代の音階は、「自由自在に色々な調子の音楽を一つの楽器で演奏できる」ことと「自然音階の美しい響きに少しでも近づくこと」と言う矛盾する要素を無理矢理近づけた妥協の産物なのだ。
非常に荒っぽく紹介したが、平均律にたどり着くまでに、このような長い道筋があり、今日でも純正律から十二平均律の様々な音律が実用されてはいるのだ。そしてさらに、演奏、特に合奏技術が飛躍的に進歩した1970年代頃から(その最大の功績はヘルベルト・フォン・カラヤンにある)、純正律、ミーントーンなどの先行音律と、初期十二平均律、楽器大量生産時代の十二平均律との妥協を、一つ一つの音で少しでも厳密に行おうとする動きが盛んになった。さらにピリオド楽器と演奏法の隆盛がこれに拍車をかけたと言えよう。つまり、現代の西欧の演奏の先端では新たな“総合的妥協音律”を音一つずつについて作ろうとする極めて精密な演奏が行われている。これは新しい録音を聞けばかなり明瞭だ。
気がつかれたと思うが、音律がやたらに細分化というか、多岐にわたっているのは、創作と演奏即ち音楽表現の発達発展の所以である。そして、演奏楽器のメカニズムと演奏技術の発達が雁行した。中でも鍵盤楽器を初めとする非常に表現能力の高い音律固定楽器の発達はそれに拍車をかけている。さらに電子楽器の登場も音律問題を加速しつつある。
音律を自由に調節できるフレットのない弦楽器(ヴァイオリン族など)では、演奏者の耳で音律を決めることが出来る。しかし、音楽の主流を占める合奏では、どうしても音律固定楽器に音を合わせなくてはならない。そのため、歴史の中で主客転倒(?)が起り、自由なはずの楽器も、たとえば十二平均律にあわせて初歩訓練が行われることになってしまった。これが悲劇の始まりと言えなくもない。日本国内ではこれが非常に広い範囲で起こった。
特に前記の電子化楽器によるイージーな音楽技術へのアプローチが問題を加速した。また一方、あらゆる楽器の入手調達がここ40年ほどの間にきわめて容易になり、演奏者も増え、楽器の消費量も飛躍した。高校で吹奏楽部を持たない学校は珍しくなり、初心の吹奏楽部員でさえ、かなりのパーセンテージでかつて職業演奏家の垂涎の的であった海外の高級メーカーの製品を使用している。そして100パーセント、演奏は「量産型現代十二平均律」で行われる。最も基礎的な「音律を自分で作らなければならない楽器」であるヴァイオリンの初歩レッスンでさえ、ピアノの音で「正確に音が出せているかどうか」が判断される。初心レッスンではヴァイオリンの指板にテープで目印を貼ったりする。
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