昨年(2019年)肺結核に罹患し、入院・内服治療を受け、再発の早期発見目的で3か月毎の定期検診を受診しています。発病から二年間は定期検診を受けなくてはならないので、まだまだ先は長いです。はい。

 

世の中はコロナウィルスで大変です。私も罹りたくはありません。

 

コロナウィルスに罹患された人も、私と同じような思いをされているかと思います。社会で生活する、生きていく事の大変さです。生きづらいです。不必要に病気を言う事はもちろんありませんけれど、何だか、息をひそめているというか、まるで自分の存在自体が「この場にいてはいけない」と感じ、言葉にならない気持ちがあります。仕方がないですが。世論に対して、自分ではどうすることも出来ません。出来ることは「不必要に病気の事を言わない」、「自分から他人に感染させない」ことかなぁと思っています。

 

幸い私は、後遺症もなく、再発もなく経過出来ていることは良かったと思っています。

 

まぁ、こんな病気に罹れば、色々思う事もありまして、その中で「何故、人間は生きるのか?」と、漠然とした疑問を持ちました。しかし、私は哲学なんて解らないし、特別宗教を信仰している事もありません。そもそも、この事に答えは無いのかもしれません。

そんな中で、私の中の答えではないですが、思った事がありました。

 

「人間は死なない(死ねない)から生きている」

 

まぁ、人間はいつか死ぬのですが、死ぬまでは生きているのです。当たり前の話ですが。

死ねないから生きている。

死ぬまでは生きていなければならない。

 

だったら、生きている間に自分が「楽しい」や「嬉しい」等、感情が「良い」と「悪い」に分けるなら、「良い」と感じる事をたくさんしよう。と考えました。どうせ、死ぬまでは生きていなければならないのなら、感情が「悪い」と思う、怒り、苦しみ、妬み、ひがみ、苦しみ等を感じるより、心が嬉しいと感じるほうが良いではないかと。

 

良い感情にはいろいろあると思うのですが、「心が嬉しい」と思う事、心が嬉しいと思う事は、その人が思う事なので、私は私の心が「嬉しい」と思う事は何かと考えました。

 

その頃、初めて山に登りました。

東京都奥多摩にある山でした。今思うとそんなに大変な山ではないのですが、その時は「ヒーヒー」言いながら、心の中では「まじかぁ~」と何度も言いながらなんとか登った山の山頂に立った時の達成感、景色の素晴らしさ、大好きな富士山も見える。お腹が空いた。持参したお弁当を食べる。何時もと変わらないお弁当なのに美味しい。ご飯ってこんなに美味しかったのか。暖かいコーヒーを飲んだ。心がホットする。素晴らしい景色に美味しいご飯。きれいな空気に山の匂い。鳥の声や風の音。暖かい日差し。

私の心が嬉しいと思っている。それからは、時間があれば山に行きました。

 

私の心が嬉しいと感じる事

それは五感が嬉しいと思う事

視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚

美しい物や興味があるものを観る、自然の音を聴く、自然の匂いを感じる、暖かい日差しを感じ、美味しいご飯を食べる。すべてが山にありました。

 

 

 

人間は必ず老います。これは変わる事はありません。私も老います。

最近、老眼で目が見えなくなってきました。

髪には白髪が増えました。

歳は誰もが平等に取ります。これも変わらない事。

 

若い頃は、前ばかり向いていましたが、最近は先を逆算するようになりました。

あと何年、自分で判断し責任を持った行動が出来るか。

あと何年、山に行けるか。その先はいつまで自分の足で歩けるのか。

あと何年、美味しくご飯が食べられるのか。

 

突然病気になることだってないとは言えない。極端に考えれば、明日事故にあうかもしれない。先の事は大体予想が出来るかもしれませんが、絶対という言葉はありません。

 

だったら、生きていなければならないのなら、

自分の心が嬉しいと思う事をたくさんしよう。

一つでも、一回でも、多く嬉しいと感じたほうが良い。そう思った。

 

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