井波別院 瑞泉寺 | 高田の四季

高田の四季

身の回りで目にすることや出来事などを取り上げて行きたいと思います。

井波別院瑞泉寺は北陸最大の木造建築で明徳元年(1390)に建立。
越中に隠棲中の本願寺第五世卓(糸偏に卓)如(シャクニョ)上人が勅命により、至急ご上洛される際、馬がひずめで掘ったところ清水が湧き出る、勅命により本堂を建て「瑞泉寺」と名づけた。
井波園の名は、上人のご隠居の別荘が井波の地にあり園の字が用いられた。
杉谷山は、上人が越中国杉谷前山某という所にご留錫され、ご勧化されたので杉谷山と号する。瑞泉寺は後小松天皇の勅願所(天皇の信仰された寺)である。
 
イメージ 1
                                       
イメージ 5 瑞泉寺本堂
 
イメージ 2
瑞泉寺山門
 
イメージ 3
山門の額「杉谷山」
 
イメージ 4
案内版
 
 
 
越後高田の瑞泉寺(上越市南本町三丁目)も「井波園瑞泉寺」と言う名称である。違いは富山のほうは「大谷派(東本願寺)」「井波別院瑞泉寺]で、
高田のは「本願寺派(西本願寺)」「井波園瑞泉寺」である。
 
「越後高田にも井波園瑞泉寺が有る。なぜこのように同じ名前の寺があるのか?」と越中井波の瑞泉寺の説明していた僧に尋ねた。「同じ派内の争いで、分かれた」と説明しただけだった。
家に帰ってから、小冊子「瑞泉寺の歴史」で調べてみた。   「後小松天皇の勅願所 井波園瑞泉寺を継承」の項で、次の様に述べてある。
江戸時代初期、越中井波の瑞泉寺と古府(高岡市)の勝興寺と勢力争いがおこり、前田藩の加勢もあり瑞泉寺は敗れました。瑞泉寺はその時の本山の裁定を不満とし、大谷派(東本願)に転向してしまいました。
 
延宝元年(1673)十二月、本願寺准如上人はこれを遺憾として、後西院天皇の勅許を得て、後小松天皇の「勅願所、
井波園瑞泉寺」の寺号並びに一切の寺宝を越後高田の勝願寺に継承させた。勝願寺は「井波園瑞泉寺」と改称した。
勝願寺は慶長二十年(1615)、高田城主松平忠輝の招きで飯山より高田に移って来る。
信州・越後・佐渡の触れ頭として、藩主同格の待遇を受ける。
山内七ヶ寺、末寺五十ヶ寺をもって門徒八千と共に永代この地を賜る。と書かれている。