。。。。。。。。。。
psm95:1 さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
psm95:2 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。
psm95:3 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。
psm95:4 地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。
psm95:5 海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。
psm95:6 来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。
psm95:7 主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら 、
psm95:8 メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなに してはならない。
psm95:9 あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。
psm95:10 わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい 、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない。」と。
psm95:11 それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、はいれない。」と。
。。。。。。。。。。
おはようございます。
今日は早出。取引先に無理を言ってお願いするものを持ち込まねば。。
では早速共に詩篇を。
今日僕の心に留まったのはこんな言葉。
psm95:5 海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。
psm95:6 来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。
造られた。。
神様は僕らを愛すべき友として創られた。
海も、また陸も僕らの為。
動物も全ての生き物も、それは僕らが豊かに過ごす事の出来る為。
神様は僕らが命を喜び
豊かに過ごす事ができる事を本気で考えられて最高のものを備えられる。
例え
僕らの今がどんなに辛くとも・・・
神様は僕らの為に新しい道を造って下さる。
神様は僕らの為に日々造られる。
それは
本気で僕らを愛しているから。
だから 大丈夫。
神様は全てを造られる方だから。
- このアーサーעָשָׂהが私たちのためになされるとき、それは恩寵用語となります。かつて私はあることで信仰の危機を感じたことがありました。自分の惨めさのゆえに希望を持てないで苦しんでいた時がありました。そんな時、ある歌を歌いながら神の慰めの力を感じたのです。その歌とは以下のように力強い神への告白を歌っているものでした。
- 主は道を日々造られる 何もないように思えるときでも
主は御手で 御許で支え 新しい明日を 主は道を造られる
天と地が滅び失せても 主のみことば 滅びず
荒野に道を 砂漠に川を 今日も造られる(Don Moen “God Will Make A Way”)
- はからずも、この歌詞にも「造られた」ということばがあります。英語でGod will make a wayです。主が造られたのは「荒野における道」「砂漠における川」です。そして今もその神の恩寵の行為は継続しているのです。この歌の出典はおそらくイザヤ書43:19からのもと思われます。「見よ。わたしは新しいことをする(עָשָׂה)。今、それが起ころうとしている。」と宣言されて、「荒野に道を、荒地に川を設ける」と約束されています。
心配しないで。
実は心配しないという事も神様への信頼への現われだから。
心配しちゃうって事は
僕らの将来は心配でどうしようもないというサタンの囁きを信じてる事だから。
僕らはどちらを信じますか?
サタンの囁き?それとも僕らを造られた神様?
今日も素敵な選択ができますように。
是非、今日語られてる
神様の声に耳を傾け、選び、その言葉を口にしてみませんか?
心が否定しても、バイブル(神様)
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?
僕らは今日も大丈夫!!
神様・・
eps1:17
どうか、私たちの主イエス・キリストの神
、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、私に
eps1:18
また、私の心の目
がはっきり見えるようになって、
eps1:19
また、
ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.
・・・・・・・・・・
詩95篇「造る」 עָשָׂה アーサー
〔カテゴリー〕
5節「海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。」
6節「来たれ。・・私たちを造られた方。」
Keyword;「造る」 do, make,
- ヘブル語では「創造する、造る」ということばにバーラーבָּרָא(bara')があります。創世記の1章1節の「初めに、神が天と地を創造した。」で使われています。バーラーבָּרָא(bara')は全く存在しないところから有を生じさせる動詞です。しかし、詩95篇で使われている三つの「造られた」という動詞はすべてアーサーעָשָׂה(`asah)です。
- この動詞も神の創造の行為として使われます。たとえば、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった」(創1:31)、「主は天と地を造られた方である」(詩115:1)など。また、私たちに対する様々な行為を現わす動詞、たとえば、「神である主は、アダムとエバ妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(創3:21)、「エジプトで大いなることをなさった方」(詩106:21)、「主の右の手は力ある働きをする」(詩118:15~16)、「主はその望むところをことごとく行われる」(詩115:3)などに使われています。
- このアーサーעָשָׂהが私たちのためになされるとき、それは恩寵用語となります。かつて私はあることで信仰の危機を感じたことがありました。自分の惨めさのゆえに希望を持てないで苦しんでいた時がありました。そんな時、ある歌を歌いながら神の慰めの力を感じたのです。その歌とは以下のように力強い神への告白を歌っているものでした。
- 主は道を日々造られる 何もないように思えるときでも
主は御手で 御許で支え 新しい明日を 主は道を造られる
天と地が滅び失せても 主のみことば 滅びず
荒野に道を 砂漠に川を 今日も造られる(Don Moen “God Will Make A Way”)
- はからずも、この歌詞にも「造られた」ということばがあります。英語でGod will make a wayです。主が造られたのは「荒野における道」「砂漠における川」です。そして今もその神の恩寵の行為は継続しているのです。この歌の出典はおそらくイザヤ書43:19からのもと思われます。「見よ。わたしは新しいことをする(עָשָׂה)。今、それが起ころうとしている。」と宣言されて、「荒野に道を、荒地に川を設ける」と約束されています。
- 神の恩寵的な創造の行為は、私たちに希望を与えます。それゆえ神を待ち望むことができるのです。詩95篇は礼拝とはいかなることであるかを私たちに教えている詩篇です。そこにある「主が・・を造られた」という宣言は、神が、単に、自然界や私たちを造られたという静的なイメージではなく、常に、私たちとかかわり、みこころを実現させていくところの神の創造的・恩寵的行為をなされる「行動の神」であるとの告白なのです。
http://meigata-bokushinoshosai.info/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs95
・・・・・・・・・・