(‐^▽^‐)おはようございます。
今日は実は息子の運動会。だから、早朝礼拝に参加してきやしたー。
では、早速
今日も勝手にワーシップタイムをおおくりしますね。
今日はジーザスの最後の言葉である大宣教命令と云われる有名な箇所だった。
なんかぁ・・・すごい言葉だよねぇ。
どんな意味があるんでしょ。。。
では、早速今日の箇所を。
。。。。。。。。。。
mat28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
mat28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
。。。。。。。。。。
この言葉を受け12使途のトマスはインドに出かけた。
これは12二弟子だけの言葉なのだろうか?これは、二十世紀を超えた僕らへの言葉でもあるのでは無いだろうか?
これは、ジーザスの遺言とも云えるかもね。
じゃ、少しづつ言葉の意味を知っていきましょ。
先ずは
①行って・・・
待っていてはマズイ。ジーザスは出ていってと語られた。ジーザスもこの地に来てくださった。それは、サタンが支配している場所で僕らを独りにはしたくなかったからかも。そしてジーザスに出会い愛に溢れた人によって僕らはジーザスと出会った事を思い出せるかもしれない。
②バプテスマを授け・・・
決心の行いであるバプテスマを受ける事は大切な事だ。このバプテスマは肉体によって体験する事の出来る神様の約束だ。思いだけの決心では得られないブレる事の無い「体験」。このバプテスマも肉体に制限された僕等への神様の愛の配慮であるとも言う事ができるかもしれないね。
③わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい・・・。
ここで、神様の心、思いを伝えて行く必要を語られた。
何故だろう?
神様が命じれれるのは、何故なのかを先ず知らなければ、話は始まらない。
神様の命令は僕等への愛だという事まで辿り着かなければ、僕らはその事を真に理解してない。
僕らはサタンに支配された肉体で生きている。(勿論その体は神様の創られた素晴らしい存在だ。)あくまで、サタンに支配されているという事実があるから、神様の命令はあるという事を忘れてはならないのかもしれない。
サタンは神様と人が引き離される事に必死。サタンは人が神様からズレると神様と人との間に仕切りが出来る事を喜ぶ存在だという事を知るときある事がわかってくる。
神様はいつも僕らを近くで愛していたいという事。
神様の命令は僕等への愛なんだね。
サタンによって、人との間に仕切りが出来る事を避ける為に。
いつも傍で愛したい為に、①行く事も、②バプテスマも、③命令も神様の愛。
僕らは神様の愛を受けて、神様の愛につながる事で、新たな一歩を踏み出せるに違いない。
大宣教命令は
実は神様の愛につながる事から。
つながる事を通して僕らは(自然)勝手に変えられていく。
僕らの力で出来る事をしていくのが大宣教命令ではない。
神様の愛を見つめる事による自然な愛の行動が大宣教命令じゃないだろうか。愛のない命令を心に満たすと僕らは自分自身を見失い、力を失ってしまう。自分自身を失いながら弟子たちが宣教を成功させたんだろうか?
それとも、ジーザスの愛に満たされて、神様の愛を伝えたくて出て行ったのだろうか?
今、僕らは何を見つめているだろうか?
言葉の上っ面に踊らされてはいないだろうか?
サタンに騙されて神様の真意からズレないでいたいですね。
神様からの言葉は初めから最後まで必ずアイ、あい、愛。愛から外れてると思う時は気をつけたいですね。
では、今週も神様の愛だけ見つめて過ごせますように。