。。。。。。。。。。
【詩篇17篇】o19 ダビデの祈り
psm1:1 主よ。聞いてください、正しい訴えを。耳に留めてください、私の叫びを。耳に入れてください、欺きのくちびるからでない私の祈りを。
psm1:2 私のためのさばきが御前から出て、公正に御目が注がれますように。
psm1:3 あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。あなたは私をためされましたが、何も見つけ出されません。私は、口のあやまちをしまいと心がけました。
psm1:4 人としての行ないについては、あなたのくちびるのことばによりました。私は無法な者の道を避けました。
psm1:5 私の歩みは、あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした。
psm1:6 神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。
psm1:7 あなたの奇しい恵みをお示しください。立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。
psm1:8 私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。
psm1:9 私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。
psm1:10 彼らは、鈊い心を堅く閉ざし、その口をもって高慢に語ります。
psm1:11 彼らは、あとをつけて来て、今、私たちを取り囲みました。彼らは目をすえて、私たちを地に投げ倒そうとしています。
psm1:12 彼は、あたかも、引き裂こうとねらっている獅子、待ち伏せしている若い獅子のようです。
psm1:13 主よ。立ち上がってください。彼に立ち向かい、彼を打ちのめしてください。あなたの剣で、悪者から私のたましいを助け出してください。
psm1:14 主よ。人々から、あなたの御手で。相続分がこの世のいのちであるこの世の人々から。彼らの腹は、あなたの宝で満たされ、彼らは、子どもらに満ち足り、その豊かさを、その幼子らに残します。
psm1:15 しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見 、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。
。。。。。。。。。。
おはようございます。
オリンピックではメダル奪取ですね。
嬉しいもんですね。ガンバレーニッポン!!
では早速共に詩篇を。
今日僕の心に留まったのはこんな言葉。
psm1:8 私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。
ダビデさんは本当に神様の愛を感じて過ごしてたんですよね。
だから
『 ひとみ 』のようにという表現が使われていて
『 御翼の陰 』という表現されている。
どれ程優しい表現だろうかと思わされる。
僕は小さい頃から、神様は怖い方だという印象があった。
お祈りもみんな 『 天のお父様 』 なんていい方をしているもんだし
僕の実の親父は頼んでもコトゴトク受け入れられた経験がないからだ。。。
(聴いてくれないという経験が多かったかな・・・)
ダビデさんはそんな優しさを体感していた。
僕らもそんなダビデさんの優しい神様が、僕らを大好きな子供としていつも見つめて下さっている。
『 ひとみ 』 のように。
体感してみませんか?
ダビデさんと一緒に、心で決めて言葉に発してみましょうね。
心が否定しても、バイブルの言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?
僕らは今日も大丈夫!!
神様・・
eps1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、私に与えてくださいますように。
eps1:18 また、私の心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
eps1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、私が知ることができますように。
a-men.
・・・・・・・・・・
詩17篇 「ひとみのように」כְּאִישׁוֹן ケイション
8節「わたしをひとみのように守り、・・」(新改訳)
8節「私をお護り下さい。瞳―目の娘―のように。」(岩波訳・・直訳)
Keyword; 「瞳のように」 as the apple of your eye, 17:8
- 「ひとみのように」と訳されたケイションכְּאִישׁוֹן(ke'ishon)は、動詞ではなく、名詞のイションאִישׁוֹן(‘ishon)に前置詞のケכְּ(・・のように、as,)が頭についた言葉です。ケイションכְּאִישׁוֹן(ke'ishon)は};旧約で4回、詩篇では1回しか使われていない珍しい語彙です。
- 日本には「目の中に入れても痛くない」という慣用句がありますが、それは自分の子どもや孫がとても愛らしくてかわいくてたまらない思いを表しています。そのように、「ひとみー(瞳)」はとても大切なものを表わすたとえです。
- モーセの訣別説教が記された申命記にはイスラエルの民に対する神の思いが次のように語られています。「主は荒野で、獣のほえる荒野で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。」(32章10節)と、主の民に対するねんごろな思いが「ご自分のひとみのように」と記されています。このような主のかかわりに対して、「主の命令を守って生きよ。わたしのおしえをあなたのひとみのように守れ。」(箴言7章2節)、LBでは「宝物のように大事にしなさい」と訳されています。
- 詩17篇では、どんなときでも、神を第一にして生きてきたダビデが敵によって包囲されている現況の中で主の助けと守りを求めています。驚かされるのは、神が自分のことを「ひとみのように」大切に思って下さる方であるとダビデが意識していたことです。このような意識がダビデの人生の歩みの中でいかにして育ってきたのか興味あるところです。
- 神が自分のことを「ひとみのように」、つまり、ひとみを守るように、自分を守ってくださるという確信、これが信仰者の大きな課題であると信じます。御父が御子に対して語った「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」という愛の声、この声を聞いて生きること、そして親しい愛のかかわりの絆を強めることが、どんな働きにも勝って重要なことなのだと思います。愛の土壌なしには良い実りと収穫は期待できません。良い土壌は私たちの努力で作ることはできません。神の愛の御声を日々聞きつつ生きることによって、はじめて、神と私とのかかわりの土壌は豊かになっていくと信じます。
- 自分が神に「瞳のような」存在として、いとしく愛されている存在であるというアイデンティティが、あるときは悩みの中で、あるときは静まりの中で強められることを求めていきたいものだと思わされます。
- 「ひとみのように」守るという恩寵とならんで、同節の「御翼の陰に私をかくまう」ということばも味わい深い恩寵用語です。「かくまう、隠す」と訳されるサータルסָתַר(satar)が神の保護として用いられているのは、詩篇では27:5/31:20/64:2の3箇所です。
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs17
・・・・・・・・・・