今日は日曜日。
晴れましたね~。なんかスッキリ空気まで雨が綺麗にしてくれたみたい。
素敵な朝ですが、今日は教会ではイースターと呼ばれるジーザスの復活祭!
んな事で、今日も早速
ワーシップタイムでございます。
(勿論ユテコ解釈ですが。。。)よろしくお願いします。
なんと今日は疑う人からお話が始まった。その人の名はトマス。
なんとトマスは、僕と同じ双子なんでっす~。僕も疑り深いし、なんか似てるのかも。。
さぁ、このトマス。
一番聖書に多く示されて、有名な箇所がここの箇所なんすよね。
疑い深く
こんな奴にはなったら、アカンって事が記されているのか?と思いきや、なんと此処で語られてるのは
疑り深い人も大丈夫!
そんな人にも時間を割いて、僕は会いに行くよ~。だって僕にとって疑ったって大切な友に違いないから。
なんかイイですね。
僕も受け入れられた気がしました。
折角なので、
今日はそんなバイブルの箇所まるまる記しておきますね。
ここは、十字架にかけられ死なれて、墓に安置されて3日目の朝から記されています。
。。バイブル 。。
jhn20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
jhn20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
jhn20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
jhn20:4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
jhn20:5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。
jhn20:6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、
jhn20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
jhn20:8 そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。
jhn20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
jhn20:10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。
jhn20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
jhn20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
jhn20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
jhn20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
jhn20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
jhn20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。
jhn20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」
jhn20:18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。
jhn20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
jhn20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
jhn20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
jhn20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
jhn20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
jhn20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
jhn20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
jhn20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
jhn20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
jhn20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
jhn20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
jhn20:30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
jhn20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
。。。。。
「・・・見ずに信じる者は幸いです。」
「・・・見ずに信じる者は幸いです。」
僕らは
ジーザスの復活を見てはいない。
でも
信じる事はデキるもの。
「・・・見ずに信じる者は幸いです。」
信じる事とは、信仰といわれ
こう記されている箇所も参考になる。
。。バイブル 。。
「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」
(新改訳では、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」)
。。。。。
信仰とは、
まだ見ていない事実を確認すること。
言葉どおり
見ていない『事実』を確かだと認める事。
その『事実』は、見ていない過去かもしれないし、もしかしたら、その『事実』は、見ていない将来かもしれない。
だって、神様は時間を超越された方だから。時に拘束される事はないんやから、『事実』は僕らみたいに過去だけ!ではないもんね。そんな『事実』を確かに認める事が出来たらイイですね。
ジーザスは甦られた。
僕らを大好きで大好きでたまらなく、全ての罪の汚れを洗い流す為に死なれ、神様の子として心の平安・愛いっぱいで共に生きるため甦られた。
見ずに信じれたらイイですね。
でも、
見ないと信じれなくってもイイんですよ。疑ってもそのまま求めてみませんか?トマスの様に。
そのままで神様は、ジーザスは愛してますから。。。
では。
今週も素敵な一週間を。
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