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今日もユテコ解釈でメッセージ箇所を。
マルコ 5 25 34
『娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。』
この記事からも、ジーザスは病に苦しんでいる一人一人に関心をもち、愛しておられる事がわかる。
女は失望していた。
色んな医者にたらい回しにされ、お金もすべて使い果たしコジキ同然の生活をしていたはず。
長血をわずらうというのは、婦人系の病気だと思うが、その当時は汚れた病とされ、隔離されなければならないものやった。
ジーザスが来られるという話しを聞いて、民衆の中に入ってバレたら罰せられる状況に関わらず、命をかけて『期待』してジーザスに触れて癒されると信じて、近づく事を決心した。
人に頼り失望を繰り返した女性は、最後にジーザスを信じることにした。
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女性がここまで思いになったのは、藁をも掴む思いでどうしようもない状況になっていたから。
ジーザスは貧しいものは幸いだと語られているのは、信頼して解決を与えられるジーザスに近づき求めることになるからだとも思える。
貧しいものに僕はなってるだろうか?代理のもので埋め尽くされ満足しててよいのかと自問自答してしまう。
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信仰は まだ 見ぬことを保証するという選択の行為。
女性は ジーザスに触れると、きっと直る。と言っていたと書かれてある。
思いには、色んなものが沸き上がるもの。
当然、この女性にも沸き上がる否定的な思いはあったに違いない。
たた、女性はジーザスが直して下さる方だという思いの方を選択して、『言』うという行為をした。
そして
実際にジーザスに近づき癒しを体験する事になった。
僕らに大切な行為は、
『信仰』。
ジーザスに『期待』して近づこうと選ぶ事を神は喜ばれている。
ある記事に
病はこの人が罪を犯したから?なんて質問があったときにジーザスはこう答えた。
『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現されるためです。』と語られました。
病をもたれている方は、その病をとおして素敵な香を表す事のできる方だと神に認められ、委ねられているようにも思わされる。
病をもたない僕は、その業に耐える事のできない者とされているのかも。
しかし、
そんな病をもつ方の為、祈る事がまた、支えとなれる実際の助けをする事ができる。
ジーザスは
互いに愛しあいなさい
と言われる。
さあ、僕らは今日誰に期待し、思いの何を選択し歩んでいきますか?