ドイツから青年が通訳の方を三人もつれてやってきた。
炉の炭が火におこるのを見たいという。
テレビの撮影でも炭をおこす。
私の祖母は毎日炭を使っていた、
そばで灰をうまくかけると朝まで消えないのも知った。
炭は田舎から俵で送ってくれた。
ただ、みな長く、ブナや楢の木だった。
それでも毎日お稽古に使うのだ。
水をかけながらそれぞれの寸法に切る。
乾いたまま切れば、皮がボロボロ。
今日は乾いた炭を整理して、仕組んで箱に入れていたら、後炭の輪胴が一本もない。
やむなく、胴炭を切る。
はて?
輪胴の寸法はと考えて、忘れていた。
炭キリに定規がいる。
若い時に作った定規を見つけた。
のこぎりは小学校の家庭科のもの。
今日はうまく切れた。
輪胴が三つできたので何とか今年はもつだろう。
炭はだんだん皆さん方が見る機会がなくなる。
最近、逆に炭の怖さ、美しさ、その機能美を知るために、この一年も炭に力を入れた。
まだ世界には日常炭がないと冬が越せない民族もあるという。
電気は便利だがあまり使いたくはない。
また炭はよい灰がないと役に立たない。
大昔から灰を大切にと昔話にある。
私も祖父の田舎の囲炉裏の灰をもらってから、
灰が分かり、炭が分かってきた。
もう、未来にはなくなってしまうかもしれないからこそと、
私は炭と灰の勉強をした。
それは最初の鎌倉の師の教えであった。
海が潮風を運んで、師の家も吹き抜けた。
あの太陽、夏は滑川の海に注ぐ口で仰向けになり陽を浴びていた。
そこは大昔は八幡宮の神輿を潮風で清めた場所という。
あの青春、二度とないもの。
家内は鎌倉は鬼門という。
座禅を習っていた和尚は五十で行く。
師の先生も六十で、
禅病の私が立ち直れたのは茶道のおかげだ。
理屈向き、ただただ行動する。
今できることを今する。
何事にも一期一会という。














