鎌倉の終わりから、室町の初めには大いに世相が乱れた。
幕府が滅び、新しくできた室町幕府も京都にできたが土台が不安定だった。
将軍は常に内乱におびえ、
下剋上の反乱に用心した。
足利義政にしても、内助の功,日野富子のおかげで東山山荘を作り、
政治に関与しないで、足利家の御物を東山御物として正倉院に対抗したという。
足利家は代々将軍であったが、後醍醐天皇との争いもあり勢いが衰えていく。
当然将軍の疲労は強まり、病がちになる。
その将軍を助ける人たちが同朋衆という、ある種のスペシャリストのチームなのである。
名がない。
当時盛んだった、時宗や踊る念仏のような発想だろうか、南無阿弥陀仏の阿弥に一字につけたという。
帰化した外国の方や戦で敗北した方はそれで身分を隠して、将軍に仕えた。
その当時の大名茶は、まだダイスしかなく、お茶もまだ生産が追い付かず苦いものでも手に入らなかった。
あくまでもその当時の濃茶は漢方薬であった。
将軍でも具合の悪い時でないと飲ませてもらえないという、貴重なもの。
同朋衆も漢方の医者みたいな黒い羽織を着る。
身分がないというしるしで、ある意味で代々の将軍の主治医なのである。
切り傷から心の病まで治せるという。
この黒い羽織は私も50過ぎて着るようになる、茶道では十徳と言って家元の代理をするときは着る。
だが、私は古流のように仙台平の袴が好きだった。
家元にも恐れ多いし、これを身に着けると、もう半僧半俗という訳のわからない世界に入るのも嫌だった。
母が亡くなる前に着物のお稽古着を一年分作ってくれた。
その中に十徳が入っていた、母には五十を過ぎて納得がいったら着せてもらうと約束した。
袴は家内の父の仙台平、三代目の私がはきつぶした。
これも父と母の恩をおもう。
親の恩を第一歩とするのが茶道なのである。
室町時代、行台子が発明されて、お茶が京都から宇治、静岡にまでひろがっていく。
同時に、焼き物も国内で生産可能になり、安土桃山までには瀬戸でよいものが焼かれる。
お香も流儀ができて盛んに、
お花も将軍家が、能阿弥に立花を教わるという発展ぶりであった。
そんな東山の文化を担う屋敷の庭園は、芸阿弥達が将軍が同仁斎という初めての4畳半から眺めてよいように庭を広げた。
外は戦乱の嵐である。
中はあらゆる文化の繚乱、いい悪いではないのだろうあの時代。
そうしなければならなかったのだろうと思う。
おかげで茶道も新しい時代にひらいた。
まさに闘茶というばくち性のあるお茶から脱却。
世相を新しいお茶、禅と儒学を一休さんに学んだ村田珠光さんが京都の大黒庵で始めた利休さんにつながる茶道になるのである。
書院、台子のお茶も利休さんは19まで学んだ。
利休さんのお祖父さんは田中千阿弥という同朋衆といわれている。
まさに一人や二人の大名によって、新しい平和な時代がやってきたのではないと思う。
この時代はあまり、語られないが本来はもっと語られてよいと思う。
この混乱の時代に、
私は今でも不思議に思えることがある。
中国から栄西さんも持ってこられた茶の種。
歴史では学んだが、どうしたらこんなにおいしいものになったかが不思議だった。
焼き物は分かったから、のこる人生、このお茶づくりのルーツをたどろうと思う。
そのルーツをたどりながら私の健康が良くなればいうことはないのである。