古典を学ぶとは、何の芸術でも大切にしてきた。


古きを訪ねて新しきを知る


昔の先人は言った。


いつかそのままでは壁ができて進めないときがある。


そしてまた、歴史の中で茶の湯がどう変わってきたかを知りたいと思う。


始まりは、また長い歴史の中で巡ってゆくと自分の日本人の血脈まで遡り、気が付くと50年である。


理屈でも順序でもなかった。


確かに、胸の覚悟一つ。


名物は、己である。


抹茶をいただく、いただき方が呑み方が変わる。


美味しいまずいではない。


この命に一服の緑のお茶をいただける感謝。


それには長い先人の苦労、努力があることを古典の伝授を通じて悟る。



なんにもわかってなかった。


現代まさに、情報化。


奥伝で検索したら沢山の流派の真の画像がでた。


初めてだがこれは知らない人が見ると何が何だかわからなくなると思った。


昔からお弟子さんも教えていないのに、所作を真にする。


何も言わない。


何処かで見たか、聞いたのだろう。


早く難しいことをやりたいのだ。


古典はルーツをたどる旅。


4年は無我夢中。


その向こうに、理想は利休さんのように新しい時代の茶の湯を発展していこうというもの。


毎日の実生活に生かせる茶の湯にしなければならない。


そのためにこそ古典を学んで、日々のお稽古を一層深みのある意義のあるものにしてゆくのである。


秘密でもないが、新しい方には予備知識がないほうが私は説明も伝授もしやすい。


以心伝心とはそういうことなのである。


兎に角段階を追って学んでいくもので、


いきなりの人が見せられたら、


たいがいはヤンなるだろう。


徐々に階段を上がるというのもつらい。


私は楽しく楽しくてお稽古していたらここへきてしまった。


私には名利無の世界。


なかなかこの頃文がまとまらない。


迷うことが多すぎるのだろう。


これを削除して、


父のメダカの話を書こうかと思ったら、読ん医するでくれている方がいる。


やはりまとまらないがこのままで今日は終えよう!