無 一番最初にぶつかる 禅問答である。
一字である。
存在と無の無ではない。
説明、勝手な解釈は許されない世界。
生まれかわれるか、
今日はお釈迦様の誕生日だが、
輪廻転生というのがある。
キリスト教ではイエスの復活。
これがうまく信じられなかったので長老が二つに割れた。
私の洗礼を認める派ともう一度やり直しという派。
未だそのままである。
三位一体を感じ、牧師さんも洗礼に聖霊を感じたという。
私はそれだけで十分だと思っている。
長いこと仏教も学んだ。
お経も読んだ。
座禅もした。
瞑想もしたし、カソリックの修道院も体験。
私のが学問が先に来る宗教学になったのだと思う。
長老に言わせると家内のほうが信心が本当だという。
家内も二度教会に来てくれた。
だが普段家内を一人にすることはない。
祈りはするが、大空の下が我々の教会と初心に帰る。
神は愛なり。
ものの形、質量ではない。
狗子に還って仏性アリやナシや 無ーとうなるのを最初の鎌倉で教えられた。
無ーむーむーと大きくいきを吐く。
下腹に力を入れて腹式呼吸。
眼は半眼で円を描くように結界をつくり、バリアーをはる。
口は閉じて舌を上顎につけて舌をかまないようにして呼吸をする。
鼻だけで吸って吐くのが正式。
男性は陰陽に足を組む、その上に手を交互にのせて親指で蓮を作る。
指に震えが来たらすぐやめて休んだほうがよい。
女性には金剛坐という座り方がある。
今の正座であるが、手はおなっじく合わせて蓮を作る。
足は後ろで左右の親指を合わせて陰陽が整うというのは同じである。
長い間に家内が立っている教室の床下で野良猫が子供を産んだ。
最期の2匹は、シャム猫とペルシャだった。
シャムはあとから来た小さなペルシャ猫を育ててくれた。
赤ん坊の時は2匹とも親に死なれて飢えていたのである。
最初は家内がスポイトでエサをあげて生き返らせた。
2匹とも猫の鳴き声はなく、部屋も出たがらなかった。
私たちが帰るのを大人しく待った。
23年もいたという気がしない。
一時ペットレスになった二人だった。
今はメダカの赤ん坊を待つ。
何から何が生まれて何になるかは、神様の領域。
私は迷える子羊である。
ほんのちょっとお手伝いができればよい。