随筆 オヤジの靴は随分昔に書いたもの、雑誌に出すので力を入れた。
それがどういう訳か、作品は家から消えた。
私小説で、私と父の物語。
犯人は妻、この作品は発表してはいけませんと隠したのだ。
父は軍隊経験者、戦後もまるで軍隊の生活のようなものだった。
帰れば靴を綺麗にみあきあげピカピカにする。
それを靴の木型に入れて崩れないようにしていた。
もう父のピカピカの靴はないが、父の靴は軍靴なのだろう。
それから、家族の夕飯を作る。
母はいないから、父が夕飯、私も部活が早く済むとお手伝いである。
姉もいたが、お料理には興味を示さない。
飛んでいる姉であった。
今はメニエールの目まいの病で幅広の靴、スリッパで大地をしっかり踏みしめて歩く。
大きな足で幅も広い。
父とは一回り大きい。
安定した歩きが出来て、いまだ倒れたことも転んだこともない。
歩き方は茶道の摺り足、重心を低くしているからぶつかってくる人は逆に跳ね飛ばされ、自転車もオロオロしている。
謝るのは私の方である。
倒れた自転車まで起こしてあげる。
剣道、太極拳で鍛えた体は健在である。
右は父の最後の靴。
履けないが、大切に保管している。
まだ父の家にはたくさんのピカピカの靴があるが、もう履いてくれる人もいない。
父の軍隊での愛機はゼロ戦である。
毎日仕事が終わると、かえっ来て一番洗濯。
その日のものはその日という父の教えは、今の私に引き継がれた。
この夏まで三シーズン、父のようにその日のものは行水をしながら手洗である。
気分はよい。
この頃は、日曜日にはまた父のように白髪を染める。
最初は抵抗があったが、白髪ぼかしは父の姿に重なり私も自然にするようになる。
父は日曜日には必ず白髪を染め、沸かしたお風呂に愛犬のコリーを入れ、洗ってあげていた。
知らない人は、夜は派手に遊んでいると思っていたが、それは花柳界の噂。
本当の父は自分に厳しく生きた。
家庭を大事にして、私と姉の将来だけを考えてくれた人であった。
定年後も、戦友の遺骨を求めて、フイリッピンのジャングルを75歳まで毎年歩いた。
隊は全滅、遺族を案内して遺骨を探す父はどんなに辛かっただろう。
父の遺言で、父の書き残した文集がある。
敬礼と俳句ー俳句と短歌で出征から敗戦までを書いたもの、父は亡くなる前に私に文章を推敲してインターネットに出してほしいと言った。
父の家に何度か籠って、挑戦したが難しい。
戦友がすべて実名。
日本を出発した輸送船が台湾に着き、父が初めて目的地を知らされ、甲板に上がるまで読んだが泣けて泣けてとても文章を直すどころではなかった。
父は港に油で黒くなったバナナを見て、母に食べさせたいと涙した。