異性関係を問われた時のすごく素敵な言い訳について
女「恋人はいるの?」
男「いや」
女「寂しくないの?」
男「慣れたさ、訓練でね」
女「どんな訓練?」
男「僕は不思議な星に生まれたんだ、欲しいと思ったものは必ず全部手に入れてきた。でも何かを手に入れるたびに別の何かを踏みつけてきた、わかるかい?」
女「少しね」
男「誰も信じないけどこれは本当なんだ、三年ぐらい前にそのことに気づいた。そしてこう思った、もう何も欲しがるまいってね。」 (参考文献 村上春樹著、1973年のピンボール)
これはいいね、素晴らしい。しかし「わかるかい?」って聞いても「少しね」って応えてくれる女の娘は実際にはいない、別にいいけど。
でも村上さんの小説を読むたびに思うんだけどずるいなぁって、ずるいとは少し違うか、なんだろう、こういうのが読みたい人間っていっぱいいるんだろうなぁって。
「ほとんど誰とも友だちになんかなれっこない。」
それが僕の1970年代におけるライフスタイルであった。ドストエフスキーが予言し、僕が固めた。(同書)
12歳の時直子はこの土地にやってきた。1961年、西暦で言うとそういうことになる、リッキーネルソンが「ハロー・メリー・ルウ」を唄った年だ。 (同書)
だとか、こんなの読んでくらっと来てしまう人間が腐るほどいるってことなんだろうね、ドストエフスキーだかドフトエフスキーだかも知らず、聞いたことも無いような歌手の名前だとか、ジャズ、ウィスキーだとかタバコなんだとか、一番最初に書いたようなちょっと気の利いたような言い回しだとか、そういうのを読みたい人間が世の中にはいっぱいいて、そういった人に過不足なくかっこよさげな文章を供給して何かが満たされて消費されていく。でもそれによって満たされるのは、本を読んでいる自分に酔っているような概して面白くない人間のちっぽけな自尊心だったりするんだろうけど。
そこまで相対化しておいたことを言い訳にするわけじゃないんだけど、この本の作者の意図だとか比喩に込められた本当の意味だとかを追求するのが文学で、さっきあげたようなかっこよさげな言い回しを集積していくのがブンガクだとしたら、自分は本というものをブンガクとしてしか消費していなかったりして。でもみんなきっとそうなんだよって。