税理士の世界一周旅行挑戦記
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私本 日本の歴史 1 3/2

1)仏教に否定的な物部氏(神道)vs仏教に積極的な蘇我氏

540年大伴金村は失脚し、物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがる。蘇我氏は約40年皇位につき、蘇我氏の全盛期が築かれる。

大和朝廷の豪族の中には原始神道の神事に携わっていた氏族も多く、物部氏はその代表的な存在で、新たに伝来した仏教には否定的であった。一方、大豪族の蘇我氏は渡来人勢力と連携し、朝鮮半島国家との関係からも仏教の受容に積極的であった。

2)仏教派は抵抗勢力により敗北(残念な欽明天皇・蘇我氏)

欽明天皇は仏像の見事さに感銘し、群臣に「西方の国々の『仏』は端厳で見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか」と聞いた。これに対し蘇我氏が受容を勧めたのに対し、物部氏は反対。意見が二分され欽明天皇は仏教への帰依を断念。蘇我氏に仏像を授け私的な礼拝や寺の建立を許可したが、直後に疫病が流行。物部氏は「仏神」のせいで国神が怒っているためだと奏上。欽明天皇もやむなく仏像の廃棄、寺の焼却を黙認した。

3)物部氏vs蘇我氏の対立は子の馬子に引き継がれる

552年百済から仏像と経文が伝来する。廃仏派の物部氏は寺を焼き、仏像を投げ捨てた。物部氏と崇仏派の蘇我氏の確執勃発。

対立は、子に持ち越される。

再び疫病が流行し、物部氏はこれを蘇我氏による仏教崇拝が原因として大規模な廃仏毀釈を実施。仏像の廃棄・伽藍の焼却・尼僧らの衣服をはぎ取り鞭打ちした。仏教の問題というよりは、次期大王の人選も絡んだ対立が根底にあった。

4)日本における仏教受容の動機(背景)

用明天皇は仏教に対する関心が深く、死の床に臨んで自ら仏法に帰依すべきかどうかを群臣に尋ねたが物部氏は猛反対した。ここで注目されるのは、用明天皇が正式に帰依を表明したきっかけが自身の病気であることである。これは、神祇・神道が持つ弱点であった穢れや死に対処する方策として仏教が期待され、日本における仏教受容の初期的な動機になった。

*ブッダの教えは分かりやすい。

(ブッダの教え)

怒らない

落ち込まない

迷わない

仏教の可否を巡る争いは物部守屋滅亡まで続いた。

5)推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子体制ー仏教の時代へ

蘇我馬子は推古天皇を即位させ、聖徳太子(強い血縁関係)と合議して政治運営し、仏教を奨励した。推古天皇は皇太子(甥、万機を摂行させた)と大臣馬子の勢力の均衡を保ち、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。(公正な女帝の治世)在位中は蘇我氏の最盛期。

聖徳太子

・ 実務担当

・ 天皇中心の世界を目指す

~仏教の奨励(法隆寺建立・三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔)

~日本国家の独立宣言・中国皇帝からの信任を得る

・ 公務員制度確立

~冠位十二階(才能を基準に人材を登用)

~十七条憲法(豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している)

・ 外交政策

~遣隋使を派遣して社会制度や学問を輸入。(小野妹子)

国民と仏教

仏教を信奉したのは朝廷を支える皇族・豪族の一部に過ぎず、仏教が国民的な宗教になったとは言い難い。

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